第36話 rose red

氷室がボールをハーフコートに置いて帰ってから、結の昼休みは、ランチ→ハーフコートのルーティンが出来上がっている。


どんなに忙しくても5分だけでもバスケットボールに触ると、気分転換になるのだ。


もちろんシュートが一本も決まらない時もある。


その逆に信じられないくらいシュートがあっさり決まる時もある。


自分の気持ちやコンディションを確かめるのにもちょうどよい。


懐かしい夢を見て目が覚めた今朝は、アラームよりも30分も早く起きてしまったので随分余裕があった。


おかげで夜に回す予定だった洗濯物を干して、フローリングの拭き掃除までしてしまった。


それでも時間が余っていて、久しぶりに髪を緩く巻いて下ろしたら、何だか表情が女っぽくなった気がして、すぐに氷室の顔を思い出した。


いつもより丁寧にリップを塗った自分の顔は、夢の中の自分よりもずっと歳を重ねているけれど、それも不思議と嫌じゃない。


いまの自分もアリだな、と思えるのは、いまの自分を認めてくれる人がいるからだ。


それにしたってなんであんな恥ずかしい夢を。


氷室ともう一度付き合うようになってから、昔のことをよく思い出すようになった。


ちょっとした仕草や言葉に、懐かしい記憶が甦って、そのたび嬉しくなったり恥ずかしくなったりする。


そして面映ゆい気持ちを噛み締めている結のことを楽しそうに眺めている氷室を見てまた胸がときめくのだ。


「結ー」


ハーフコートの手前から、両手にアイスコーヒーを持った氷室が名前を呼んできた。


今日の彼のスケジュールは直出だったはずだ。


戻り予定は14時頃だったはずなのに、1時間近く早い帰社である。


「お疲れ様ー。戻るの早くない?」


「道が空いててさ。ただいま」


助かったよと答えた氷室が手にしていたアイスコーヒーを片方差し出す。


「おかえり。良かったね。ありがと。あ、カフェオレだ」


「氷なし、ミルク多めな、合ってる?」


「合ってる。頂きます」


昔から夏場の結のドリンクはカフェオレと決まっている。


どんなに熱くても氷はいれない主義だ。


最初氷室に伝えた時は、冷たいほうが美味くない?と怪訝な顔をされたけれど、今では彼もすっかり慣れていた。


日陰になる場所に並んで、日差しの照りつけるハーフコートをぼんやりと眺める。


こうしていると学生時代に戻ったような錯覚がしてくる。


蝉の声、ドリブルの音、隣に居るのは大好きな人。


ふいに隣を見上げたら、制服じゃないスーツ姿の氷室が居て、二倍照れ臭くなった。


「今日夜から会食入ったから、返信遅くなる」


「うん。今日は何系?」


「王道の割烹。雰囲気は良さそうな店だったから、味も良かったら連れてく」


仕事柄会食に引っ張り出されることが多い氷室は、行く先々で良さそうなお店を見つけては結を連れて行ってくれるのだ。


おかげで彼とのデートで食事に悩んだことはなかった。


「どんどん行きたいお店増えてくねぇ」


”ここどうかな?このお店可愛いから行きたいんだけど。あそこのお店リニューアルオープンだって!”


行きたい場所を探すのは、あの頃結の仕事のようになっていたのに。


「そのほうが楽しいだろ?」


いまはそれを探す前に氷室が目の前に差し出してくれる。


だから結が一人で空回りする暇もない。


探ろうとしなくても氷室は気持ちを伝えてくれるし、結の意見を聞いてくれる。


「うん・・・・・・・・・ありがと」


見上げる角度は昔と同じままなのに、降って来る愛情はきっとあの頃の倍以上。


うわあ、愛情だって。


まさか10年以上経って、毎日のように氷室からの愛情を感じられる日が来るとは。


高校生の頃の私に言いたい!!!


めげるな!三十路になったらめっちゃいいことあるよ!!!


だから空回りは控えめにね!!!


「なに照れてんの?」


「ぅぇ!?」


いつも通りの態度で接していたつもりなのに。


ぎょっとなって氷室を見上げれば、眉を下げた彼が相好を崩した。


「さっきから微妙に距離取ろうとしてるし。なんかあった?」


「いいいいいえべつに!」


いますぐ激苦アイスコーヒーを飲みたくなった。


緩みまくった思考はカフェオレではどうしようもない。


「言いにくいこと?」


横並びだった氷室が、日陰から出て目の前にやってくる。


真正面から覗き込まれて、視線を揺らせるしかない。


大袈裟なくらい跳ねる心臓は、まるで高校生の頃に戻ってしまったよう。


ほんの一瞬昔の氷室が懐かしくなったから。


へらりと笑って誤魔化そうと目を細めたら、視界の端に二人の影が見えた。


こちらを見下ろす氷室の影と、立ち尽くす結の影が綺麗に微妙な角度で重なっている。


「ぅわああああああ!待ってっ!」


恥ずかしさが限界突破して目を閉じた。


「え、なに?」


「いま死ぬほど恥ずかしいこと考えたから!ちょ、ちょっと一人にして!」


とてもじゃないが氷室の前で冷静でいられない。


彼の側から離れようと後ろ足を引いたら、カフェオレを持った方の手頸を掴まれた。


「俺と一緒に居て恥ずかしいこと考えたんなら、俺にも聞く権利あるよな?」


「あるけどないよ!」


必死に返した結の背中に腕を回した氷室が、悠然と距離を詰めて来る。


「うん、あるんだ。で、なに?やらしいこと?」


どこか嬉しそうな問いかけに、びくっと肩が震えた。


彼の頭の中に思い浮かんでいる事柄を知りたいような知りたくないような。


とりあえずあらぬ誤解をされたくないので、やらしいことじゃありません!と言い返す。


「か、影が・・・」


「・・・・・・・・・は、影?」


心底面白くなさそうに言って、氷室が足元を見下ろした。


「昔・・・・・・女の子たちの間で、シルエットキスが流行ったことがあって・・・・・・実際に・・・その、出来なくても・・・影だと、ほら、そういう風に見えるから・・・・・・なんか、それを思い出して・・・恥ずかしくなっちゃって・・・」


二人の影をこっそり写真に撮ったことがあったのだ。 


まだ氷室とキスしたことはなくて、手を繋ぐのもやっとの頃だったから、若干ブレたその写真ですらドキドキしたものだ。


結の言葉に改めて二人の影を確かめた氷室が、抱き寄せる腕に力を込めた。


「・・・・・・もう陰でなくても良くない?」


「それは・・・う・・・っん」


もう二人は大人になったから。


太陽を背にしながら降って来たキスは、ちゃんとした実感とぬくもりを結の唇に与えてくれた。

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