第37話 crimson

ガゴッと鈍い音がして、ボールがボードにぶつかった。


落下地点に回り込んだ氷室が、片手でそれを掴まえて手首だけ使って打ち直す。


入るな、と思ったら案の定綺麗な弧を描いたボールがゴールネットを揺らした。


「結、重心」


「打った瞬間気づいた」


身体の重心は真っ直ぐに、ジャンプの時は膝を使って。


手首と指先はリラックスして、全身をバネにして丁寧に投げる。


そのどれか一つが欠けたら、シュートは決まらない。


「あとどれくらい時間ある?」


結の質問に、腕時計を確かめた氷室が答えた。


「んー・・・・・・10分?かな」


「よし、三本は決めよう。お腹も空くし」


”夕飯何食べたい?”は、氷室が結に投げる質問の定番だ。


イノベーションチームの仕事が早く終わることはまずないので、結の仕事が早く終わる日に食事デートに出かけるようにしている。


今日の食事デートは、先週から決まっていた。


土曜出勤の氷室の仕事が終わった後、結の最寄り駅で待ち合わせをして夕飯を食べることにしたのだが、行きたかったお店が予約でいっぱいだったので、空いている平日の予約を入れて来たのだ。


スパイスにこだわった本格インド料理のお店は、テーブル席が2つとカウンターのみの小さなお店で、以前氷室がお昼を食べに入った時にはテーブル席は空いていて、カウンターにも空席があったらしい。


ところが、この数か月の間SNSで人気が広がったらしく、お店の前にまで空席待ちの列が出来ていた。


カレーに強いこだわりなんてなかったけれど、行列が出来るほど美味しいインドカレーと聞けば、俄然食べてみたくなった。


なので本日はカレーリベンジである。


「今日ね、太田ちゃんにクッキー貰ったけど、食べるの我慢したのよ。全力でカレーを楽しもうと思って」


「そんなに?昼何にしたの?」


「焼きサバ定食であっさりにしといた。完璧でしょ」


「予約しといて良かったよ。ごめん、こっちで煙草吸っていい?」


結を見つめて微笑んだ氷室が、ゴール下から離れた。


「うん。そっか・・・氷室くん煙草吸うんだよね」


ポケットから煙草を取り出す仕草が新鮮過ぎて食い入るように見てしまう。


以前彼の机の上に置いてあるパッケージをチラッと見たことがあった。


喫煙経験のない結にはメンソールの風味ということしか分からなかった。


「うん。でも、結と一緒の時は吸ってないだろ」


風向きを確かめた氷室が、風下に移動してライターで火をつける。


「そういえば・・・・・・服にもあんまり匂いついてないよね・・・車にも」


「そんな本数吸ってないし、外で吸うから、匂い残んないんだろうな」


「煙草ってさぁ、美味しいの?」


吐き出される紫煙をぼんやり眺めていたら、子供みたいな疑問が浮かんだ。


いや、美味しいからみんな吸ってるんだよ、と脳内で一人突っ込みする。


「んー・・・癖になる味?」


目を伏せた氷室が携帯灰皿に灰を落とした。


長い指が煙草を揺らす仕草にわけもなくドキドキする。


この指がキスの最中気まぐれに輪郭を撫でたり、耳たぶをなぞったりしてくるのだ。


そして、いつかはその先の。


未だ彼に見せていない場所に長い指が触れる幻が浮かんで、慌てて視線をつま先へ逃がす。


「ふ、ふーん・・・」


「これからも結と一緒の時は、室内では吸わないから」


「あ、うん。助かる・・・・・・・・・」


「俺の部屋でも、それは同じだから」


「・・・う、うん」


「抜き打ちで来てもいいよ。ベランダでしか吸ってねぇし」


「はい!?」


「結、煙草苦手だろ」


「・・・・・・・・・覚えてたんだ」


付き合っている頃、ファミレスに行くたび当たり前のように禁煙席に座っていた二人だ。


家族にも喫煙者はいなかったし、煙草に興味もなかった。


煙草が苦手だと直接言葉にしたことなんて無い。


氷室の大学の近くまで迎えに行った時、コンビニで煙草を吸っている彼の友人に声を掛けられたことがあった。


立ち話の最中、煙がこちらに来て思い切り顔を顰めたことがあった、けれど、あれ一度きりだ。


そういえばあれ以来待ち合わせは、駅前に変更になった。


「そりゃあな・・・・・・本数は増やさないから、もうしばらく見逃して」


「別にやめて欲しいとか思ってないよ。そりゃあ身体には良くないだろうけど、嗜好品だし・・・そこまでとやかく言う権利私にないし」


氷室が自分で稼いだお金で煙草を買っているのだから、誰にも迷惑はかけていない。


結にとっての甘いものやお酒が、彼にとっては煙草のなのだと思えば、否定する理由もなかった。


のだけれど。


「言ってもいいよ」


あっさり言い返されて、彼のスタンスに戸惑う。


これまで付き合ってきた相手にも、そこまで自分の主義主張を押し付けたことはない。


「・・・・・・・・・そ、それはなに、あの・・・彼女だから?」


「ん、それもあるけど・・・・・・結が嫌だっていうならやめれる気もする」


「私のためとか、結構ですから!」


この先一生氷室に煙草をやめて、は絶対言うまいと心に誓う。


いまの氷室なら、結が願えばなんでも叶えてしまいそうだから怖い。


そこまで完璧に理想の彼氏になられると困るのだ。


だって結自身が理想の彼女ではないのだから。


「そう?じゃあまあ、無理ってなったら教えてよ。禁煙する」


「そ、そんな簡単に煙草ってやめれるもんなの?」


煙草を携帯灰皿に入れて、氷室がもう一度腕時計を確かめた。


「さあ?わかんねぇけど、多分、理由があればどうとでもなるんじゃない?・・・よし、行くか。シュート三本決めれてないけどいい?」


「次回に持ち越しにする」


「そっか」


頷いた氷室が、結の手元からボールを取り上げる。


「あのさ氷室くん!」


「ん?」


「何でも譲らないでいいからね!?もう一回私と付き合う事で、無理とか、我慢とか・・・そういうのして欲しくなっ」


い、の形になった唇をかすめ取った氷室が、眼前で小さく笑う。


ふわっと広がったメンソールの香りに目を閉じたら、もう一度唇を啄まれた。


不意打ちのキスに心臓全部を持って行かれる。


「譲ってないよ。ちゃんと意見は聞くよって話」


「そ、れは有難いです・・・」


意思疎通はコミュニケーションの基本中の基本だから。


意見聞いてもあっさり頷いて終わっちゃうような予感がするのだが。


これ以上あれこれ言うと本気で予約の時間に遅れそうなので大人しく引き下がる。


「一方通行には、絶対しないから」


頷いた結の指先を握った氷室が、視線を合わせて微笑んだ。












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