第38話 lacquer red-1
「折原、今日仕事終わるの何時?車だから送る」
人事総務のフロアにやって来た氷室が、結の席の隣で立ち止まった。
ここ最近お馴染みになって来た光景である。
後輩の太田をはじめとしたフロアの面々の興味深そうな視線が一気に突き刺さってくる。
メッセージくれたら秒で返信するんだけどな!?
氷室としては出先から戻った足でそのままこっちに来た方が手っ取り早いとか思っているのだろうけれど、毎回ドキドキさせられるこっちの身にもなって欲しい。
しかも、氷室は狼狽える結の反応を楽しんでいる節さえあるのだ。
椅子の背に手を掛けて結がそれ以上遠ざかれないようにして尋ねてくるところがもはや憎らしい。
それでもなけなしの抵抗で、椅子の上でじりじりと逃げみてたが、反対の手が伸びてきて指先を掴まれてしまった。
「無理?嫌?それとも?」
絶対に断れない三つの選択肢を秒で差し出してくるあたり、さすが精鋭揃いのイノベーションチームだ。
一度も逸らさない視線で答えを待つ氷室の表情はもうすでに勝ち誇っている。
「む、無理じゃない・・・」
「よかった。で、何時?」
途端相好を崩した彼に、二人を遠巻きにしていた女子社員たちからほうっと蕩けるような溜息が零れた。
「え・・・すぐには時間がちょっと分かんない・・・」
「じゃあ内線かメッセージ送って。俺いまから内勤だから」
「あ、はい」
こくこく頷いた氷室が、仕事は終わったと晴れやかな顔でフロアを出ていく。
真っ赤になって狼狽える結とは正反対のすがすがしい表情は、まるで試合の後のよう。
大人になった氷室は、愛情表現を躊躇わなくなった。
十代の結は、氷室の言葉足らずを何度ももどかしく思っていたけれど、まさかこんなド直球の愛情表現が返って来るようになるなんて。
喜んでいいはずなのに、硬い表情になってしまうのは、未だこのお付き合いに実感が持てないから。
社内恋愛禁止どころか、むしろグループ全体で社内結婚を推進しているきらいのある西園寺グループである。
誰からも文句を言われることはないが、氷室は現在社内の独身女性の人気を集めているし、仕事柄取引先企業や行政に出向くことも多く、その先々でも結構な人気らしい。
らしい、というのは、赤松が雪村経由で仕入れた情報だが、まあまず間違いないだろう。
外見の点数でいうなら、当然のことながら雪村の圧勝だが、相手が女性だろうと男性だろうとビジネスライクにしか取り合わない彼は鑑賞物としてのほうが人気度が高い。
その点、氷室は、雪村の倍は愛想がいいのでとっつきやすさで行けば軍配は確実に氷室に上がる。
上がって欲しくはないけれど。
付き合ったとたん彼女面して嫉妬丸出しってどうなのよそれは。
自分を戒めつつ大人しく控えめに社内恋愛を楽しみたいと思っているのに、初っ端から全力で攻め込まれて陥落した後も氷室の攻めの手は止まない。
この先のことを思うと心臓持つのかな、とちょっと本気で心配になってくる。
抱きしめられるたび、背中を撫でる手のひらがいつ結を翻弄してくるのかと内心ドギマギしていると言ったら、笑われてしまうだろうか。
大人同士のお付き合いなのだから、当然キスのその先もあるわけで、結とて経験がないわけではない。
が、相手が初カレの氷室となると色々勝手が変わってくるのだ。
物凄くピュア尽くしだったあの恋の延長線上に、今があるのなら、やっぱり一足飛びにそういう関係にはなれそうにない。
だって恥ずかしすぎするから。
「し、施設管理行ってきます!」
手元のクリアファイルをひっつかんで飛び出す勢いでフロアを出る。
結が追いかけてくることを予想していたのか、氷室はまだ廊下にいた。
駆け寄ってくる足音に気づいた彼が、振り返って結を見止めて笑み崩れる。
だからそこでキュンとなるな、私。
「ひ、氷室くんっ」
「来ると思った」
「さっきのアレ、なに!?」
「なにって、一緒に帰ろうっていうお誘い?嫌だった?」
「嫌じゃないけど、そ、それならメッセージとか、チャットとかでね!?」
スマホという文明の利器もあるし、社内イントラの個別チャットは仲間内の雑談には持って来いだ。
なにもわざわざフロアまでやって来て、あの距離感で尋ねる必要は無い。
もっといくらだってやりようはあるでしょう、と勢い任せに詰れば。
「疲れてたから、顔見たくて。ほら、社内だし」
悪びれもせず答えた彼が、結の手を引いて壁際に移動する。
絡ませた指先をからかうようになぞられて、怒りのゲージが三分の一になった。
チョロい自分が情けない。
氷室はこの十年ちょっとの間で女の子の甘やかし方をちゃんと覚えてしまったようだ。
「~~っっそ、そういうのは・・・」
「求めてたよな?」
負けるな負けるなと自分を鼓舞していたのに、その昔自分が求めていた理想像を引き合いに出されるとぐうの音も出ない。
ええ、ええ、求めてましたとも。
憧れは少女漫画みたいな青春恋愛でしたとも。
だから、高望みしてバスケ部でかなり目立っていた氷室に突撃したのだ。
「うっ」
「言葉と態度で示さないと、と思って」
「わざと!?」
「なんでだよ。愛情表現」
もうちょっと好きって言ってくれたらいいのに、とか、もうちょっと彼氏面してくれたらいいのに、とか、馬鹿みたいに何度も思いましたよ、ええもちろん。
けれど、結の乙女心は十代の氷室には当然届かなくて、彼の態度は変わらなくて、それでも手を繋げれば嬉しかったし、目が合えば照れくさくてホッとした。
ああピュアだったなぁ。
あの頃の氷室は、キスのおまけで首筋を甘噛みして来るようなことは絶対になかった。
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