第35話 nail pink-5

西山と付き合うとか、西山と氷室を並べて検討するとか、そんなつもりだけは無いことをまずは理解して貰おうと言葉を紡げば、いまだ揺れている結の気持ちを見透かしたように、氷室が抱き寄せていた腕の力を緩めた。


出来た隙間にほっと息を吐いたら、肩を包み込まれる。


あ、この距離から逃げられないんだなと思ったら、彼が視線を合わせてきた。


あの頃から変わらないのは身長くらいだろうか。


何度も見上げて見惚れた背中がすぐ目の前にある。


現役引退以降もスニーカー一辺倒だった結なので、結局別れるまで二人の慎重さは縮まることは無かった。


だから、ヒールを履いている今が一番氷室と顔が近い。


キスをしやすい身長差は何センチだったっけ、と詮無い疑問が頭を過る。


ぼんやりし始めた結を前に、神妙な面持ちの氷室が唇を開いた。


「わかった。もう一回告うから。好きです。俺ともう一度付き合ってください」


「じ、自信がありませんっ」


投げられたボールを打ち返すくらいの速さで答えていた。


「・・・・・・・・・俺が嫌いだって言わないあたりが、折原らしいよな。自信ってなんの?」


「いや、だって、氷室くんも覚えてるでしょ?私、ちっともいい彼女じゃなかったし」


氷室の立場も気持ちも少しも慮ってやれなかった。


「そんなことないよ。一途で可愛い彼女だった」


すかさず言い返されて、一途はともかく可愛いは余計では?と弾む胸を押さえる。


「それはもう、それしか取り柄が無いというかほら」


「自信がなくなったのは、突き詰めていけば俺のせいだろ?」


「そうじゃなくて、氷室くんは、私と別れてからすっごく成長して、昔よりかっこよくなってるけど・・・・・・私、見ての通り歳だけ取って来たの。あの頃と全然変わってない」


「昔とおんなじで面倒見良くて優しくて、そのせいで自分後回しにしがちなとこも好きだよ。俺は、あの頃も今も同じ気持ちで折原に惹かれてる。昔は、伝え方が分からなかったから、不安にさせたし傷つけたと思う、ごめん」


「私、高校の頃もかなり勇気出して告白したのよ。ほんっとに、一生分の勇気振り絞って、日和んないように部員みんなに告ってくるって宣言して、自分追い詰めて、そうでもしなきゃ言えなかった。振られるって覚悟して告白したし、泣く準備も出来てた。だから、氷室くんがオッケーの返事くれたのがほんとに夢みたいで・・・・・・こんなことってあるんだなって嬉しくって・・・・・・舞い上がってた・・・知ってるよね?」


「・・・うん」


「だから、あの頃みたいに、また空回って独りよがりになって、気持ちが離れて行っちゃうのがほんとに嫌なの。氷室くんは、あの頃の自分を上書きしていくって言ってくれたけど・・・私にとっては、あれもいい思い出だし・・・そりゃ反面教師にしてる部分もあるけど・・・やっぱり・・・初カレの記憶は大事にしたいし」


時々思い出して、死ぬほど恥ずかしくなって、でも、未熟な自分が愛おしくなって、胸がきゅうんとなる。


だってあの瞬間にしか味わえない全力の青春だったのだ。


駆け足で過ぎていってしまったけれど、きらめきは消えていない。


こう言えば、いまの結の気持ちを理解して貰えるだろうかと視線を合わせる。


「じゃあさ、折原の自信がないとこ、俺に預けてよ。俺は、上手くいく自信しかないから」


安心させるように肩を撫でた手のひらが、力なく下ろされたままの両手を握りこんでくる。


大学入試の前に、こんな風に手を握り合ってお互いを励ましあった。


バスケから離れて、突き指とは無縁になってもやっぱり太いままの関節が恥ずかしくて、握りこんだ拳を彼が珍しく強引に解いてきたことを昨日のことのように覚えている。


氷室は、ずっと優しかった。


言葉こそ少なかったけれど、ちゃんと結のことを見てくれていた。


「・・・・・・・・・なんで・・・そんな・・・?」


好きだと思えば思うほど、嫌われる恐怖心だって増えていく。


途切れた赤い糸をもう一度結び直すのは、きっとそんなに楽じゃない。


それでも、氷室は、まるで簡単なことのように、それを口にする。


まるで二人の未来が見えているかのように。


「俺に、一番でっかい愛情くれたのが、折原だから」


「・・・・・・そんな大げさな・・・」


「あんな熱心に好かれたことねぇよ。後にも先にも折原だけだよ」


一途さには定評があります、と心の中で答えておく。


バスケ三昧の毎日に、ふらりと入り込んだ異分子は、あっという間に結の世界をきらきらに塗り替えていった。


初めての胸のときめきは、そう簡単に手放せるものではない。


「俺も今度こそ大事する。から、大事にさせてください」


「・・・・・・・・・・・・っ」


たぶん、あの頃一番聞きたかった台詞だ。


このさきずっときみのことをだいじにします。


少女漫画のようなセリフだが、世の中の男女はそうやって愛を誓いあって生涯を共にするのだから。


ああいいなあ、いつかこんな風にお互いを思いあえたらなぁ・・・


十代の乙女心を薔薇色に染め上げた一言が目の前の氷室から聞こえて来たことがいまだに信じられない。


頷かないなんて無理だ。


でも、頷いたって無理かもしれない。


わやくちゃの頭は何の言葉も紡がせてはくれない。


何も言えなくても、心が震えれば涙は零れるもので、ポロポロと目尻から溢れた涙を結より先にぬぐったのは、氷室の温かい指先だった。


「泣いてもいいけど、返事」


「う・・・え・・・だって・・・」


「言ってくれないと、俺は抱きしめていいのかわかんないだろ?」


「・・・・・・わ、私も好きですっ」


あの頃の数十分の一の小さな小さな声だった。


「うん。ありがとう」


柔らかく答えた氷室が腕の力を強くするのと、結が彼の肩に頭を預けるのが同時だった。


後ろ頭を包み込んだ手のひらが、あやすように髪を撫でていく。


たどたどしさ皆無の仕草に、早速嫉妬心が顔を覗かせてきたけれど、今はもう全力で彼の腕に甘えてしまいたい。


しばらく思いの丈を吐き出すように泣きぬれていた結が、グズグズと鼻をすすって顔を上げると、目尻に残っていたわずかな涙を唇でぬぐい取った氷室が眉を下げて笑った。


「その顔ですぐ戻るのはちょっと無理だな」


赤い鼻をちょんと突かれて、慌てて顔を背ける。


腕を伸ばして逃げた彼女を引き戻した氷室が、慰めるようにつむじにキスを落とした。

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