第34話 nail pink-4

困惑しきった表情で結は間近に迫る氷室を見上げた。


「・・・・・・あの、私、後片付けがまだ・・・」


自社に戻って行く朝長と西山を見送った後、廊下の柱の影から伸びてきた腕に閉じ込められた時には大きな悲鳴を上げそうになった。


すぐに氷室が結の名前を呼んで、ホッとしたけれどさっきの一連のやり取りが全部筒抜けだったことを悟って、一気に逃げ出したくなった。


そして、結が逃げ出せないようにするために、氷室が腕を回して来たのだと理解した。


「会議当分終わらないんじゃない?」


「いや、でもまだ仕事が」


戻らないとね、と苦笑いを浮かべた結の耳元で氷室が低く囁く。


「じゃあ、俺が納得できる返事を聞かせてよ」


西山から向けられている感情は恋愛感情ではない、とはっきり言い切った癖に結果がこれだ。


もはやぐうの音も出ない。


「・・・・・・それより、なんでここに氷室くんがいるの?」


狙ったかのようなタイミングで現れた彼に、驚きを隠せない。


実は会議が始まった直後から見張られていたのではと思えてくる。


忙しいイノベーションチームにそんな暇はないと分かっているけれど。


「折原がこっちにいるから?」


さも当然とでも言うように答えた彼が、人差し指を立てて静かにと訴えてくる。


手際よく結の口を押さえて、会議室の隣の小会議室に入った氷室は、物凄く不機嫌顔で結を見下ろしてくる。


出先から戻って来た彼は、総務人事のフロアを覗いてまだ会議室から戻っていない結を探してここまでやって来たらしい。


どうしてこうもタイミングが悪いのか。


「やっぱり言った通りだっただろ?好きじゃない相手にあの距離で接しないよ普通」


「・・・・・・・・・でも、私ちゃんと断ってるし」


西山を前にしても一度もブレなかった。


むしろ悔しいくらいに氷室への気持ちを自覚させられただけだった。


「うん。そこは評価する。でも、俺を前にした時よりずっと優しい顔してるのはなんで?」


「は?だ、だって、あの子は後輩で、私が事務処理一から教えた子でもあるから」


後輩に向ける先輩の顔になるのはしょうがない。


そして、結は自分が氷室を前にした時にどんな顔をしているのかさっぱりわからない。


いま自分が出せる精一杯の答えを口にしたにもかかわらず、未だ氷室は不機嫌なままだ。


「俺は、折原の元カレだけど」


「・・・・・・元カレどころか初カレよ」


そして再燃してもう戻れなくなった。


焼け木杭には火が付くような情熱的な恋じゃなかったはずなのに。


やけくそになって答えた途端、手首を掴んでいた手が離れて、背中をきつく抱きしめられた。


躊躇いも迷いもない力加減に一瞬息が止まる。


「うん。そうだった」


嬉しそうに呟いた彼が肩に甘えてきて、首筋を短い髪が擽って行く。


吸い込んだ空気の中に混ざる知らない香りは、彼がつけている香水だ。


名前も種類も分からない男性用の香水の香りと、初めて嗅ぐ煙草の匂いに、胸がざわめく。


あの頃の氷室は香水なんてつけていなかったし、煙草も吸っていなかった。


耳の後ろを鼻先で擦られて、ぞわぞわと心もとない感覚が足元から這い上がってくる。


久しぶり過ぎる感覚と、それが氷室から与えられているという事実に軽い眩暈がした。


こんな風に焦がれるように抱きしめてくれる人では無かったのに。


「やばい。いまのはぐっと来た」


吐息で囁いた彼のかすれ声がじんわりと胸にしみて、息を飲む。


おずおずと彼に凭れかかったら、ためらいがちに背中を包み込まれるのが常だったのに。


どうして良いか分からず身じろぎしたら、唇が耳殻の恥を掠めた。


「~~っ」


背中を撫でた手のひらが後ろ頭を包み込んで、視線を合わせるようにしてくるから、あまりの手際の良さに圧倒されてしまう。


斜め前に逃がした視線の先に会議室の長机が見えて、こんなところ誰かに見られたらと身体がすくんだ。


腕の中の結の反応を確かめた氷室が、首を巡らせて背後のドアを示す。


「カギ閉めた」


「うそ」


「ほんと。だから、折原が叫ばない限り誰も近づいてこないよ」


「わ、私が叫ぶようなことするつもり・・・ないよね・・・?」


ここは会社で、この後もやるべき仕事があって、ついさっきに可愛い後輩にごめんなさいをして、昔好きだった人を吹っ切れたと再確認して、今好きな人を再認識したところで、とてもじゃないが、それ以上の何かなんて受け止められない。


昔の氷室だったなら絶対ない、と言い切れるのに、いまの氷室にはイマイチ信用が置けない。


油断した隙を突いて攻め込まれているからだ。


二回も。


「さあ、どうだろう?それは折原次第じゃない?」


告白の返事を催促するように耳たぶに唇を触れさせながら氷室が答えた。


がっちり腰を抱き込まれているから逃げられなくて、勝手に肌は粟立って行く。


「氷室くんほんっとに性格っっ」


「それは聞き飽きた」


溜息と共に耳の後ろを擽られて、そのまま首筋を引っ掻いた指先がおくれ毛を絡め取る。


二人が離れていた10年ちょっとの間で、彼は物凄く色んな経験をして来たんだろう。


そして、その一つ一つに、苛立ちが込み上げてくる自分を止められない。


「~~っ」


「西山くんにはごめんなさいして、俺には?」


「あの・・・・・・・・・あのね、氷室くん・・・・・・」


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