第8話 old rose

音楽ホール完備の図書館が建設されてから、定期的に行われるようになった西園寺グループ主催の芸術イベントでは、子供向けのミュージカルから、管弦楽団の演奏会、ピアノリサイタルや、高齢者向けの落語の寄席など様々な催し物が行われている。


西園寺グループの社員やその家族を無料招待するイベントも多く、近くの老人ホームの入居者たちを招待したり、近隣の小学校の子供たちを招待することもある。


地域貢献の企業理念を裏切らない西園寺グループ姿勢は地元住民たちから強く支持されていた。


西園寺あっての町なので、有難いことこの上ないのだが、イベントが増えると必然的に人事総務の仕事は増える。


社内便の受け渡しだけでも毎回結構な量なのに、そこにパンフレットとチケットの束が加われば施設内の移動距離は倍に膨れ上がるのだ。


しかもセキュリティが厳しいセクションになると、担当者をゲートの外まで呼び出して対応することになるので時間もかかる。


人事総務の社員証とセキュリティカードで出入りできるのは管理セクションくらいものだ。


研究所ラボの外まで出て来て貰った遠山に、来月開催のオズの魔法使いのミュージカルチケットの入った封筒とパンフレットを手渡して、タブレットで受け取り処理をお願いする。


「大人二枚と子供一枚でお間違いないでしょうか?」


「はいはい、大丈夫です。毎回ご苦労様・・・・・・げ、もう14時?」


タブレットに受け取りサインを書きながら、表示されている時間を確かめた彼が頬を引きつらせた。


研究所ラボから夜間作業連絡が届いていたことを思い出して、遠山のどこか疲れた表情にも納得がいった。


「遠山さん、夜勤明けですよね?」


「そう・・・・・・うわー14時かー・・・・・・俺の体内時計だと11時くらいの感覚だったんだけどな・・・・・・」


通常の夜間作業だと、遅くともお昼前には退勤しているはずなのだが、予定外のことが起こったのかもしれない。


「パンフレットと同封で、次回の子供向けミュージカルのチラシも入ってますので」


「あ、そうなんだ。助かります。次はなに?」


「ジャックと豆の木らしいです」


「へえー・・・・・・チビが喜びそう・・・家族と相談します。あ、あと、育休申請ってイントラのどこにあるっけ?」


「人事総務の福利厚生の欄に・・・・・・もしかして奥様おめでたですか?」


「そう。二人目ね。こないだわかったとこで。上の時も取ったけどバタバタだったからあんま覚えてなくて・・・・・・」


記憶がなぁと後ろ頭を掻く遠山はすっかりマイホームパパの顔になっている。


研究所ラボの研究者はどこか近寄りがたいクールな雰囲気の男性が多いので、こういう表情を見られるとホッとする。


「おめでとうございます。あ、もしご不明点あればお電話くださいね」


助かります、と頬を緩める遠山に頭を下げて歩き出す。


次に回るセクションを確認しようと手元の封筒を確かめていると、横から影が差した。


「忙しそうだな」


真横から聞こえて来た氷室の声にドキッとする。


この施設内でこんな距離感で結に声を掛ける異性は彼しかない。


「っお、お疲れ、氷室くん」


声が上ずってしまうのは、以前の数倍気安くなった氷室への戸惑いが隠しきれないから。


「チケット?」


結の手元を覗き込んだ氷室に、可愛いウサギの描かれた封筒を揺らして見せる。


催し物ごとに封筒の色が異なるので一目でどのイベントか分かるようになっていた。


「子供向けミュージカルのね。毎回結構な申込みの数なのよ」


「ふーん・・・」


「これから外出?」


外出と打ち合わせに追われているイノベーションチームの男性陣はジャケットを脱いでいるところをほとんど見た事が無い。


「そう。土地開発と初動確認で」


「次は土地開発と仕事するんだ?」


「オメガ療養所コクーンの第二建設決まったからその兼ね合いでな」


オメガバースという名前が世界的に知られるようになってから数年。


県内に国内初のオメガ保護施設オメガ療養所コクーンを建設した西園寺グループは一躍有名になった。


一部の地元住民からは反対の声も上がっていたオメガ療養所コクーン建設を成し遂げたイノベーションチームの株は当然ながら右肩上がり。


県境に第二オメガ療養所コクーン建設が決まったという話は課長経由で聞いていたけれど早速プロジェクトが始動するらしい。


「ほんとに忙しいねぇ・・・」


結の言葉に頷いた氷室が、結の手元にある封筒をざっと確かめて口を開いた。


「まぁな・・・・・・あ、広報の北田さん、いま市成さんと出張中。機器開発の佐藤さんは朝帰るとこ見たよ。経理の工藤さんいま本部の経理チームと打ち合わせじゃない?」


「・・・・・・す、すごいね氷室くん・・・なんでそんな情報を」


危うく無駄足を踏むところだった。


名前が挙がった人たちの封筒を後ろに回して避ける事にする。


「長く居ると人の動きって耳に入って来るからさ。とくに雪村さん無駄を嫌うから。頼もしいだろ?」


伺うようにこちらを見下ろした氷室の楽しそうな表情に、意図せず胸がきゅんとした。


こんな軽口叩ける人じゃなかったのに。


「うん。すごい助かった。ありがと」


結のお礼に嬉しそうに頷いた氷室が親しげに微笑みかけてくる。


真横から向けられる眼差しに意味なんて無いはずなのに、上目遣いで彼の様子を伺ってしまうのは、あの頃どうしようもなく欲しかった視線だからだろうか。


ちらっと結が見上げるたび、ぱっと視線を逸らす氷室との追いかけっこはむず痒くて甘酸っぱかった。


「どういたしまして。折原異動してそろそろ三か月だろ?こっちに慣れた?」


「制限区域はやっと完璧に覚えた。最初は社内便持って行くたびテンパってたから」


以前の勤務先は支店だったので、ドアロックは暗証番号式になっていた。


こちらの施設はセクションごとに厳重な入室制限が設定されているため、社員証とセキュリティカードで入れない場所が多くあるのだ。


「二度ほど困ってるの見たな」


思い出したように笑う氷室に軽く頭を下げる。


研究所ラボはとくに訳わかんなくて。その節はお世話になりました」


二回とも廊下で困っている結を助けてくれたのは氷室だった。


本当に頼もしい同僚である。


忙しい彼の手を煩わせないようにしなくては気を引き締めた途端、氷室がさらに眦を緩めてこちらを見下ろして来た。


「俺、これからは喜んで折原の世話焼くから」


「え?」


きょとんとなった結の肩を軽く叩いてエントランスに向かう氷室の後ろ姿は、やっぱり颯爽としていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る