第6話 bougainvillea
「俺の誘い、社交辞令だと思ってただろ?」
乾杯の後、ビールグラスを傾けた氷室に尋ねられて、びくっと肩が震えた。
「っへ!?」
そこまで表情に出ていただろうか。
これでも西園寺不動産にいた時は、どんなトラブルも笑顔で対応するベテラン事務員と呼ばれていたのに。
そんなことありませんよと今更取り繕っても遅いだろうなと、どの表情が正解か迷い始めた結に向かって、氷室が眉を下げる。
「もしかして迷惑だった?」
「いやいやいや!そんなことないよ!懐かしいし、誘って貰えて嬉しいよ!氷室くん忙しいのにありがとう」
あれから一週間もしないうちに氷室から空いている日を記載したメッセージが送られてきて、この中で行けそうな日選んで、と言われて、断り切れなかったのだ。
人事総務は、勤怠を閉めた後の月初がかなり忙しい。
その情報をどこかから仕入れたらしい彼は、ちゃんと月初を外した空き日を送って来ていた。
高校時代には見えなかった彼の社会人の一面に、ああ時間が流れたんだとしみじみする。
「ごめんな。実は気まずいの承知で誘った。ほんとは断られるかもと思ってたんだけど・・・・・・来てくれてありがとな」
氷室なりに色々考えたうえでのお誘いだったのだ。
結が痛い思いをしたのと同じように、彼だってあの別れで痛い思いをしたはずである。
「こちらこそ・・・・・・お誘いありがとう」
改めて大人になって向かい合うとどうにも面映ゆくて、頬が熱くなる。
氷室はそんな結に向かって柔らかい笑みを浮かべた。
「そういや折原と二人で飲んだ事無かったよな」
「あの頃まだ未成年だったしね」
行き先は決まってファミレスかファストフードだった。
「たしかに・・・・・・あ、そうだ。西園寺不動産でめちゃめちゃ頼りにされたって話聞いたよ。お前が抜けて、あっちの人たち困ってるだろうな」
あちこちに顔が利く氷室のもとには色んなグループ企業の情報が入って来るようだった。
社歴だけ刻む事が無いように必死にやってきたつもりだったが、それなりに評価されていたようで素直に嬉しい。
「それは言い過ぎ。ちゃんと下も育ってくれたし。周りもいい人たちばっかりだったから、ちょっと寂しかったけど、心機一転こっちで頑張るよ」
異動を示唆された時には、勿論戸惑いもあった。
けれど、そろそろ潮時だな、とも思っていたのだ。
「もしかして、向こうに彼氏いる?」
「え!?なんで!?」
ちゃんと笑顔で返したし、変なことも言っていないはずなのに氷室の口調が探るものに変わって焦った。
「なんとなく、寂しそうだったから?」
「いないよ。社内恋愛したことない」
同じ支店に勤める上司に惹かれていると自覚したのは二年程前のこと。
けれどまったく彼に意識されていないことも分かっていて、何も言えないまま彼は別の女性と結婚してしまった。
幸せそうな朝長の姿を見るのは嬉しくて、切なかった。
だから、潮時だな、と思っていたのだ。
「じゃあいまフリーなんだ?」
「うん。氷室くんは?相変わらずモテてそうだね」
後輩から聞いた話によると、彼はイノベーションチームの氷雪コンビとしてかなりの人気を誇っているらしい。
見た目も良くて仕事も出来る男がモテないわけがないのだ。
しかもあの頃より数倍愛想も良くて饒舌になってるし。
「いや、モテねぇよ。俺が全力でモテたのって、折原にだけだよ」
照れたように笑って、氷室がちらっとこちらを見てきた。
あの頃何度も見た表情だった。
見つめるのはいつだって結からで、照れたように視線を逸らすのが彼だった。
けれど、それでも十分すぎるくらい幸せだった。
「・・・・・・・・・懐かしすぎること言わないでよ」
もう昔話はしたくない。
自分が居た堪れなくなるから。
ハイボールのグラスを煽った結の目を真っ直ぐ見つめて、氷室が柔らかく切り出した。
「なんかほんと今更過ぎるんだけどさ・・・・・・・・・昔は、ごめんな。俺ちっともいい彼氏じゃなかったよな。別れてからすげぇ反省した」
いきなり真剣謝罪モードになった元カレを前に、結はいやいやいやと首を横に振った。
「それを言うなら私だって、いい彼女じゃなかったし・・・・・・」
「折原は、いい彼女だったよ。いつでも真っ直ぐ俺のこと見てくれてたし、一度もブレなかったし・・・あんな愛想なしによくもまあ半年も付き合ってくれたよな・・・・・・ほんとに感謝してる。ごめんな」
「こっちこそ・・・・・・あんな衆人環視の中で大声で告白して、断れない雰囲気作って、引っ張り回して・・・ほんとにごめんね」
「嬉しかったよ・・・いや、これはマジで。すげぇ勇気出してくれたんだなって思ったし・・・・・・ちゃんと答えなきゃとも思った・・・・・・思っただけで上手く出来なかったんだけど・・・不甲斐なさすぎだよな昔の俺」
「しょうがないよ。初めての男女交際だったし」
そう、お互い何もかもが初めてだったのだ。
戸惑っても、上手く行かなくてもしょうがない。
「たしかに・・・・・・でもさ、折原で良かったとも思ったよ。あんだけ真っ直ぐ好きって言われたの、初めてだったし・・・・・・一生忘れないと思うわ」
「そ、それは嬉しいような、ありがたいような・・・・・・恥ずかしいような」
「それなら、俺のほうがずっと恥ずかしいから。愛想尽かされて当然だったと思うし・・・・・・折原が泣くまで気づかないとか、あり得ないよな」
「・・・・・・あはは。泣く、というか、泣き喚くだよねあれ・・・時と場所を選べって感じだよね。私もごめん」
堪えて堪えて堪え切れなくなって、いつものハーフコートの手前で立ち止まって泣きじゃくって大声で氷室を責めた。
どうして私たちは普通のカップルみたいにできないの。
どうして好きって言ってくれないの、私のこと好きじゃないの。
ほかにも溜め込んでいたものを全部ぶつけて吐き出されて、そりゃあ氷室は困っただろう。
外で大号泣するのなんて、高校の引退試合以来だった。
冷静に話し合うとか、お互いの意見を摺り合わせる、とか、相手に譲る、とか。
何も出来ていなかった。
「結局は、氷室くんの気持ちちゃんと考えた事無かったんだよ。別れるって言われるのが怖くて、全部一方通行にぶつけるだけで答え聞こうとしなかったから」
暴走列車のような恋に巻き込まれた彼がどれくらい苦労したのか、今なら想像できる。
初カノでアレは結構なトラウマだったはずだ。
「ちゃんと話しようって、言えなくてごめんな」
「私もごめん。ていうか、もうごめんはやめにしよう。これからは同僚になるわけだし。顔合わせるたび気まずいの嫌だし。昔・・・みたいに・・・・・・友達しようよ」
果たして彼と友達だった期間はあっただろうかと疑問に思いながら提案すれば、氷室が嬉しそうに頷いて、ありがとう、と言った。
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