第5話 begonia
「え、もしかして折原?折原だよな?」
メディカルセンターに異動してから二か月ほど経った頃、廊下ですれ違ったばかりの男性社員に呼び止められた。
165センチと決して背が低くない結のプラス5センチヒールのさらにずっと上をいく長身に目が行って、体格の良さと姿勢の良さから、なにかスポーツしてた人なのかな?と思った矢先の呼びかけだったので、わずかに反応が遅れた。
こっちに来てから仕事以外で気安く話しかけてくる男性なんて一人もいなかったので、苗字を呼ばれた時には疑問符だらけになった。
そして、振り向いた先で驚いた顔でこちらを見つめてくる元カレを見つけた瞬間、懐かしさよりも先に驚きで頭がいっぱいになった。
え、なんで?なんで?なんで?
浮かび上がってくる疑問符の答えなんて彼の格好と場所を考えればすぐに分かりそうなものなのに、頭が必死に理解を拒否しようとしている。
彼は、絶対に二度と出会わないはずの相手だったから。
「ひ、氷室くん!?」
素っ頓狂な声を上げた結に向かって、あの頃とは比べ物にならないくらい柔らかい笑みを浮かべた氷室が足早に近づいてくる。
高校生の頃から長身だと思っていたけれど、そこに逞しさが加わった彼は非の打ち所がない立派な大人の男性になっていた。
高校の制服のブレザー姿と練習中のジャージ姿、デートの時の私服。
どれも最高にかっこよくて、隣に並ぶたびドキドキしっぱなしだったけれど、スーツ姿は想像したことが無かった。
けれど、確実にこれは想像の上をいく。
ストライプのシャツにダークネイビーのシックなスーツをさらりと着こなす長身は、見惚れてしまいそうなくらいカッコいい。
久しぶりに見上げた精悍な面立ちは相変わらずで、けれどこちらを懐かしそうに見つめてくる瞳は優しい。
結の顔をまじまじと見つめて知り合いだと確かめた途端、氷室は相好を崩した。
間近で細められた眼差しに勝手に熱を感じてしまった自分が嫌になる。
とっくの昔に捨て去った恋心がじくじくと痛みだす。
「良かった。やっぱり折原だった。久しぶり。ウチで働いてたんだ」
「あ、うん・・・二か月前に異動で・・・・・・え、氷室くんって部署何処?」
「イノベーションチーム。折原は?」
「私は人事総務・・・・・・そう・・・イノベーションチームにいるんだ・・・すごいね」
社員データを扱っている部署にもかかわらず、彼の存在には全く気づいていなかった。
イノベーションチームといえば、メディカルセンター一番の花形部署である。
「いや、すごいのは俺じゃなくて雪村さんな。そっか・・・・・・異動してきたんだ。西園寺グループに就職してたんだな・・・・・・・・・また会えて嬉しいよ。大学卒業してから、全然顔合わせて無かったもんな」
雪村が課長になってからの華々しい功績の数々は西園寺グループ全体に知れ渡っている。
まさか氷室が彼の部下をしていたなんて。
寝る槙を惜しんで働く部署がイノベーションチームだという噂が本当なら、こんなところで立ち話をしている場合じゃないだろうに、彼はひたすら嬉しそうにこちらを見つめてくる。
欲しくてほしくてたまらなかった優しい眼差しが、10年以上ぶりに降って来て、嬉しいのか切ないのかよく分からない。
あの頃の自分が、どれだけ一方通行だったのかひしひしと伝わってくる。
「そう・・・だね・・・」
氷室と別れてからバスケ部の仲間とは疎遠になったし、就職してからは会社の同僚とばかり出かけるようになった。
人間関係をリセットする事で、苦い恋を吹っ切ろうと必死だったのだ。
「たまにバスケ部の飲み会で折原の噂聞いたりしてたよ。どっかのタイミングで会いたいなと思ってたんだけどさ・・・・・・」
「~~っあ、う、うん・・・・・・私も・・・・・・まさか氷室くんに再会するなんて・・・」
本当に夢にも思っていませんでした。
上手く取り繕ったつもりが、出来ていなかったようだ。
こちらを見下ろす氷室の表情が一瞬強張って、けれどすぐ笑顔になる。
「話したい事色々あるんだよ。今度飲みに行かない?」
こんな風に気安く誘いかけて貰える日を、あの頃の結はずっとずっと待っていた。
彼が話したいことというのはなんだろう。
昔話だったら物凄く気まずい。
あれから10年以上経っているし、もう今更のはずなのに、彼を目の前にすると、一気に気持ちがタイムスリップしてしまって、心臓が音を立てて暴れ出す。
彼を好きだったのは遥か昔のことのはずなのに。
焼け木杭に火が付くような情熱的な恋ではなかったはずなのに。
「う、うん。イノベーションチーム忙しいんでしょ?時間が合えばまた行こう!」
人事総務は施設管理と同じ位各部署との連携が多い。
この先氷室と顔を合わせる機会だって多くなるはずだ。
ここで微妙な空気を醸し出して仕事がやりづらくなるのは困る。
必死ににこやかな笑顔を浮かべた結に向かって、氷室が小さく頷いて、約束なと笑った。
だからなんでそれがいまなの!?
”次のデートはここにいこう、約束ね!”
そういうのはいつだって結のほうだったのに。
結にとって氷室との交際は、理想と現実の違いを思い知らされる時間だった。
氷室の気持ちに寄り添う余裕なんて無かったし、彼の気持ちをちゃんと確かめる勇気もなかった。
ただ、氷室の彼女という肩書だけが、あの時の結を支えていた。
だって人生で初めて自分から告白して、付き合った初めての彼氏だったのだ。
まさか付き合って貰えるとは思わなかったし、それが卒業しても続くなんて思ってもみなかった。
いまなら思う。
彼はあの交際期間に何度も何度も別れを切り出そうとしたのだろう。
そのたび、それを言いだせない雰囲気を結が作って来たのだろう。
きっと氷室が結に付き合ってくれたのは、最初に断れなかったことへの罪悪感から。
だから、別れ際に残した彼の”ごめんな”はどこまでも重たくて静かだった。
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