第28話 flamingo-2
「・・・・・・・・・あれ・・・折原がいる」
焦点の定まらない視線でこちらを見た後ぼんやりした口調で呟いた氷室は、手枕にもう一度頭を戻してしまった。
二人きりのこの距離でなくては聞き取れないくらいの掠れた声にドキンと心臓が跳ねた。
大慌てで思い出補正にバツ印を書いて、社会人の顔を取り戻す。
油断してはいけない。
「寝ぼけてる・・・?会議もう終わってるし、あの、部屋の予約時間が・・・」
さすがにいつまでもここに居座って貰っては困る。
戻ってこない結を心配した後輩が様子を見に来るかもしれないし、ほかの会議室を使う誰かがフロアにやって来て、誤ってドアを開けないとも限らない。
メディカルセンターで働く社員は、部署によって夜間作業が発生するため仮眠室とシャワールームも完備されているのだ。
お休みになるのならどうぞそちらへと言うのが正しい。
だからお願いだから起きて、と腕を叩けば。
「待って。帰んないで」
自分より数倍高い温度を保った指先が手の甲を押さえてきた。
良きせぬ彼の行動にあっけに取られて結はその場に固まってしまう。
「え・・・っ・・・・・・」
ぎゅっと上から握りこむように押さえられて、彼に伝えるべき事項がなんだったのかもう分からなくなってしまった。
勝手に頬は火照っていくし、頭の中はもやがかかったように何も考えられなくなってしまう。
「あの・・・氷室く・・・・・・」
強引に手を引き抜けば恐らく逃げられただろうけれど、さっき彼に言われたセリフが頭の中をリフレインして、魔法にでもかかったように足が動かない。
寝起き特融のかすれた声の懇願は、耳だけじゃなくて一瞬にして結の心までも灼いてしまった。
まずいよ、とか、だめだよ、の言葉が干からびた唇から逃げていく。
そのまま動かない結を一瞬だけ瞼を持ち上げて確かめた彼がゆっくりと呟いた。
「・・・・・・10分経ったら戻るから、起こして」
「っは・・・?でも・・・・・・あの・・・手を」
10分ならまあ許容範囲内ということにしても、この手は問題だ。
人質のように握られた手に伝わってくる懐かしい彼のぬくもりは、あの頃よりもずっと大きくて温かい。
そう思ってしまう理由を自分のなかに探しそうになって目を伏せる。
目を閉じてしまった氷室を見下ろして、そっと彼の手のひらの下から指を抜き取ろうとしたが敵わなかった。
見せつけるように強く握り返されてしまって途方に暮れる。
「嫌なら振りほどいていいよ」
結の気配を察したように氷室がそんなことを言った。
さっきよりも幾分か声がはっきりしている。
これはあれだ、間違いなくしてやられたというやつだ。
「・・・・・・お、起きてるし」
「早く10分計んないと、俺いつまでも居座るよ」
いいの?と囁かれて、天井を仰いだ。
誰か氷室多悸の取扱説明書を今すぐ届けてください。
「ちょ・・・」
それは困ると彼の言葉を真に受けて、タイマーをセットしようと大急ぎでポケットのスマホを取り出した。
途端、その手を反対の手に捕まれる。
両手を握られてしまって初めて、あ、捕まってしまった、と気づいた。
どれだけ後ろ足を引いたって逃げられる距離なんてたかが知れている。
身体を起こした氷室が、結に向き直って笑み崩れた。
「折原はやっぱり押しに弱いな」
痛いところを突かれた。
二人が付き合っていた頃も何度か同じことがあった。
その度に押され負けた結は頷いてきたのだ。
それは氷室と会う時間を優先したくて超えそうになった門限だったり、ずる休みしそうになった予備校だったりした。
氷室は自分の為に結が何かを破る事を決して良しとはしなかった。
「は、なし・・・・・・」
抵抗とも呼べないような弱い声に、氷室が立ち上がって距離を縮めてくる。
後ろ足で下がるたびに一歩ずつ近づいてくる氷室の表情は穏やかなままだ。
「でも、本当に嫌な相手ならこんなことはさせない、だろ?」
結がなにを嫌って何を好んで、なにを許せてなにが許せないか。
一緒に過ごした一年足らずで彼はきちんと見てくれていた。
そして、それを今も忘れずに覚えてくれている。
自分が拒まれないことを、氷室はちゃんとわかっているのだ。
結が口にしない心の声を見透かしたかのような彼の言葉に、胸が震えた。
あの時の二の舞は絶対嫌だし、うまくやれる自信だってない。
氷室は彼がそう言う通り、昔よりずっと素敵な彼氏になってくれるだろう。
問題は自分のほうだ。
あれからどれくらい自分をアップデート出来ただろうか?
また同じ失敗を繰り返さないと断言出来るくらい、ちゃんと恋愛してきた?
高校生の頃よりずっと大人になって素敵になった彼の心を本当に引き留め続けることが出来る?
いまの私で?
考えれば考えるほどわからなくなる。
好きだという想いだけで走り出せたあの頃とは何もかもが違っているのだ。
これが終わってしまったら、本当に次の恋なんてないかもしれない。
下がっても下がって追いかけてきた足がやがて止まる。
結の踵が会議室の壁にぶつかったせいだ。
繋いでいた両手のうち片方だけが解かれて、ホッとしたのも束の間伸びてきた手のひらで後ろ頭を守るように抱えられた。
「危ないよ」
「・・・・・・」
下げた視線の先でぶつかりそうなつま先が見える。
これがいまの彼との距離だ。
「俺との距離感思い出した?」
小さく囁いた氷室の指先が、そのまま耳の後ろを撫でた。
「・・・・・・っ」
こんな触り方は知らない。
甘やかすように誘惑するように、耳たぶを撫でた指が輪郭をそろりと撫でる。
「あの・・・・・・私」
「俺はいつまで待ってていい?」
「・・・っそ、れ・・・は・・・」
好きだけれど、自信が持てない。
胸の内をぶちまけるなら今しかない。
息を飲んだ結がぎゅっと目を閉じて唇を開いた直後。
「折原さーん!」
廊下から結を呼ぶ後輩の声が聞こえて来た。
一気に現実に引き戻されて、目の前の氷室の肩を突き飛ばす勢いで離れる。
そのまま振り返ることなく会議室を飛び出した。
彼の声は追いかけては来なかった。
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