第27話 flamingo-1

「折原さん、締め処理終わりそう?」


「いま機器開発チームに再処理依頼出したので、今日中にはなんとか!念の為、矢中課長にサポートメール送っておいて貰えますか?」


係長からの確認にフォローをお願いするのは月初お馴染みの光景だ。


社員個人の勤怠の締め処理の後、上長承認を経て人事総務にデータが届けられてからの約二日が勝負になる。


休暇の種類と申請内容の整合性チェックを行って、エラーで弾かれた内容についての修正を依頼して、休暇取得が進んでいない社員へのフォローと、上長への連携報告を行って、期日までに全社員の勤怠データを提出しなくてはならない。


リモートワークや夜間作業の多い研究開発チームは勤怠の入力漏れや誤入力がかなり多いため細やかなフォローが必要な部署の一つだ。


毎月主任以下の社員が持ち回りで締め処理を行っているが、一度としてスムーズに行えた試しがない。


「んー了解ー。開発は毎月だからなぁ・・・矢中さん今日もリモートだ」


「機器開発チームって全員揃ってるの見たことないですよね」


「タスク分けして打ち合わせで進捗報告して摺合せが常の部署だし、煩い作業するのはどうしても人の少ない時間帯になるからな。引き続き頼むよ」


「承知しました・・・・・・あ!会議終わってる」


締め日までに必ず勤怠の再提出を、と念押しメールを追加で送信した後時計を見れば、第三会議室の会議はとっくに終了していた。


基本、後片付けは使用したチームの仕事としてあるが、時節柄、最終確認を兼ねた除菌作業は人事総務部の役目になっている。


「片付け行ってきましょうか?」


「ありがとう。でも大丈夫。パソコンばっかり見てたら疲れたから気分転換に行ってくる」


気を遣ってくれた後輩にお礼を言って、来客用スペースや会議室が並んだ3階に向かうと、一気にざわめきが遠のいて静かになった。


1階、2階は各セクションのフロアがあるが、3階は役員執務室が奥にあるだけでそれ以外の部屋は予約制の会議室とフリースペースになっている。


会議中だと廊下に声が漏れてくることもあるが、もうすでに全員退出済みのようだ。


凝り固まっていた肩を回して伸びをしながら無人であろう第三会議室のドアを開けて、固まった。


ホワイトボードのすぐ横の席で、テーブルに突っ伏して目を閉じている氷室の姿を見つけたからだ。


そういえばこの時間はイノベーションチームが会議予約をしていたんだった。


何も確認せずに来てしまったが、まさかこの状況で氷室が一人だけ残っているなんて。


予約時間はとっくに過ぎているので退出してもらうのが普通だが、幸い次の予約は入っていなかった。


何時に会議が終わって何時からこの状態なのか分からないけれど、ドアが開いても微動だにしないところを見るとよほど疲れているんだろう。


ここから声をかけるべきか、それとも近づくべきか迷ってしまう。


保養所に出かけてから二週間、出張や外出が続いていた氷室とは話をしていない。


結のほうも何日かはリモートワークをしていたので会社ですれ違うことすらなかった。


あの夜、思い切り結を揺さぶった氷室は何事もなかったかのように雪村たちのもとへ戻ってしまった。


真っ赤になった頬の熱を冷ましながら、心臓が落ち着くのを待ってから戻ると、目を覚ました赤松が次のワインを開けており、結としてもこれ以上動揺している事を悟られたくなくていつもよりも飲んだ。


そのため、帰りの車の中はほとんど眠ってしまっていて、氷室もそれを承知しているようで話しかけてくることはなかった。


多少は責任を感じていたのかもしれない。


自宅マンションの前で早口でお礼とおやすみを伝えて逃げるように部屋に戻って、それから何時間経っても治まらない動悸にあたふたした。


少なくとも高校生の頃の彼は、あんな風に一気に距離を詰めてくることは無かった。


なんなら手を繋ぎたいと最初に言ったのだって結のほうだった。


10代の彼との落差がありすぎて、頭も身体もついていけない。


けれど心だけは勝手に駆け出して彼のもとへ向かおうとする。


また自分だけ好きになって、一方的に思いを押し付けて終わるのは絶対にいやだ。


でも、あの日氷室は昔の自分を上書きしていくと結に伝えてきた。


すでにこれまでの数か月で、氷室が昔のままの不器用な子供ではないことはもう分かっている。


分かっているからこそたちが悪い。


今の大人になった氷室くんと付き合って・・・私、心臓持つの・・・・・・?


それでなくとも憧れから始まったキラキラの恋なのだ。


あれをもう一度、大人になった彼とやり直すだなんて。


どうぞ翻弄してください、と自分を丸裸にして差し出すようなものだ。


無理無理無理!想像しただけで倒れそうだ。


甘酸っぱい記憶はそのまま胸に秘めて大切に残しておくほうが幸せなんじゃないだろうか。


弱気な自分はそんな風に日和ってくるけれど、彼に惹かれていないといったらウソになる。


だから身動きが取れない。


あの頃の結だったら、好きの一言で、全力で彼の元に駆け出せただろうに。


廊下には誰もいないとはいえ、万一人に見られたら困る。


懇親会から二人きりで抜け出して以降、相変わらず氷室と結の噂は途絶えていない。


こんなところで二人きりだったことが広まりでもしたらさらに噂に拍車をかけることになる。


きょろきょろと辺りを見回してから足早に会議室に入ってドアを閉める。


それでも安心できずに彼の側に行ってから声を掛ける事にした。


「・・・・・・氷室くん」


楕円形のテーブルに手をついて彼の顔を覗き込む。


小さな声で呼びかけても彼は目を開けてはくれなかった。


こんな風に無防備に眠っている彼を見るのは、予備校までの時間潰しで二人でファミレスに入った時以来かもしれない。


受験勉強も過渡期を迎えていて、寝不足もあったのだろう。


問題集を開いたまま無言になった彼が、気付いたら目を閉じていて、心臓が飛び出そうなくらい驚いたものだ。


どれくらいその寝顔を眺めていただろう。


何度か起こそうとしては躊躇って、そのたび携帯の時間を確かめて、結局予備校までの時間ギリギリまで彼を寝かせておいたのだ。


結の声で目を覚ました彼は、物凄くばつが悪そうな顔をしていた。


勿論氷室が眠っていた間、結の開いた問題集は一ページも先に進んではいなかった。


飽きもせず好きな人の寝顔を眺めていたのは、後にも先にもあの一回きりである。


そんな相手の寝顔を10年以上ぶりに眺めることになるなんて。


仕方なく肩をゆすってもう一度と呼びかけると、眩しそうに顔をしかめた氷室が薄っすらと目を開けた。


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