第29話 flesh pink-1

「ぼーっとしてる、というか、ポーっとしてるねぇ。恋煩いぃひゅーひゅー」


「赤松さん、ひゅーひゅーは古いです。あの、お味噌汁零れそうだからね?」


「あ・・・っ・・・ハイ」


「なによー。付き合ったの?あれから二人でイチャイチャしたの?」


言っちゃえ言っちゃえと女子高生のようにはしゃぐ赤松をジト目で睨んで、傾いていたお椀を持ち直して白みそのお味噌汁を一口。


明太子丼に合わせてお出汁しっかりめの薄味で仕上げられたそれは、優しく胃にしみこんでいく。


ほっと息を吐いてほっこりしたいところだが、そんなわけにはいかない。


いつものランチタイムで、赤松が軽口を叩くのはもうお決まりなのだが、これまでのようにしてません!と突っぱねることが出来ないから困る。


自分が今の彼に惹かれていることを自覚してしまってから、氷室の前でちっとも冷静でいられないのだ。


ともすれば昔の自分が顔を出して、また一人で空回ってしまいそうで怖い。


「あんたたちさーこないだのグランピングで、ちょっと進展したよね?」


赤松が鋭い視線と共に推理力を発揮してきて、そこにすかさず菊池が食いついてきた。


「え、グランピングってなんですか?」


「ん?ちょっと前にさ、雪村と、黄月夫婦と、私と、氷室折原カップルで県境の会社の保養所行ったのよ」


「え!?なにそれ聞いてませんけど!?いいなー。うちの会社ってめちゃめちゃ福利厚生手厚いですよねー。全国にホテル並みの保養所あるし、格安だし。でも、人気すぎて予約取れないって槙が言ってたけど」


「んーなんかうまいこと空きが見つかったらしくてね、雪村がすぐ押さえたんだけど、氷室くんが、折原ちゃんも連れて行きたいって言ったらしくて。基本雪村あいつって飲みニケーション否定派だし、社外で部下とつるむの好きじゃないんだけど、氷室くんの熱意に負けちゃったみたいねぇ。でも、そのおかげでなんかいい感じだったじゃん二人。酔った勢いでそのままーは無いにしてもなんかあったでしょ?」


「あの日は無いです!ほんとに、ちゃんと家まで送ってくれて・・・私、車で寝ちゃったし・・・」


氷室は時々結の様子を確かめながら安全運転で自宅マンションまで送り届けてくれた。


名前を呼ばれて目を開けた瞬間、最初に見えた暗がりに浮かび上がる氷室の表情がどうしようもなく優しくて、あ、好きだなとふやけた頭で思って、慌てて覚醒した。


寝起きの顔を見られるばつの悪さを久しぶりに味わって、ああ、昔の氷室も同じような気持ちだったんだな、とちょっとだけ反省した。


「ほうほうほう。あの日は、無いねぇ」


焦って思い切り自爆したことを告げられて、一瞬気が遠くなった。


これでは他の日に何かありましたと言っているようなものだ。


会議室での一幕が頭を過って、また気持ちが彼に引っ張られる。


「~~っっあ、あの日も、ですっ!そ、それよりグランピングの日赤松さん後半ほとんど寝てたじゃないですかっ」


一度復活した彼女は、そのあとの追加ワインでふたたびへべれけになって、最終的には雪村に背負われて帰って行った。


結もそれなりに酔っていたが、氷室に手を引かれてちゃんと車まで自分で歩いた。


彼は何度も背負ってやろうか?と提案してきたけれど、酔っぱらっていても彼に負ぶさることだけはしたくなかった。


氷室はというとどこまでも甲斐甲斐しく結の世話を焼いてくれて、途中目が覚めた時の為にペットボトルの水まで車に用意してくれて、翌日二日酔いの心配までしてくれた。


バーベキューの準備から後片付けまで、すべて男性陣が主体で動いてくれたおかげで食べる飲むで埋め尽くされた幸せな一日だったのだが。


グランピングと会議室の一件で一気に距離を詰めてきた氷室は、結が困っているのではなくて戸惑っているのだと確信を持ったらしく、以降攻めの手を緩めようとはしない。


二人の関係をもう一度結び直して始める勇気はまだないくせに、雰囲気に流されて頷いてしまいそうになったのは、甦って来た恋心のせい。


だって本当に好きだったのだ。


脇目もふらず一直線に追いかけて、追いかけて、彼の手を引っ張り続けた恋だった。


だから、主導権が向こうに渡ってしまってから始まる恋は、怖い。


十代の頃なら、甘酸っぱい思い出で片付けられるけれど、同じことをアラサーがやったらイタいどころか大惨事である。


この歳で大火傷は負いたくない。


「恋の気配は察知しちゃうのよー。ほら、敏感だからぁ?」


うふふとトレードマークの眼鏡越しににやっと目を細める赤松の後ろに立った影が、数秒後辛辣な一言を落とした。


「・・・・・・お前が敏感ならこの世のすべての生物は敏感だな」


聞いているこちらが震えあがりそうな冷ややかな声の持ち主は、雪村だ。


結と菊池が揃って表情を強張らせたにも拘わらず、赤松は平然とした表情で同僚を見上げている。


雪村の絶対零度の眼差しを前にひるまない女性は彼女くらいのものだ。


そんな彼女だから、酔って雪村に背負って貰えるのだろう。


結だったら、雪村に背負われるくらいなら、這ってでも自力で車まで向かっただろう。


「はいはい辛口をどうも。なに、寂しくて会いに来たの?」


「・・・・・・本当にいつかその口縫ってやるからな」


「やだわぁ。優しくしてね。んで、なに?」


わざとらしく身体を捩った赤松が、用事があるのだろうと水を向ける。


信号組は黄月を中心に両側を雪村と赤松が固めているイメージだ。


黄月と赤松は部署も同じだししょっちゅう気さくに立ち話に興じている姿が見受けられるが、雪村と赤松が仲睦まじく過ごしているところを見た者は居ない。


それなのに、雪村赤松カップル説が定期的に浮上するのは彼らの気の置けないやり取りのせいだ。


こうして雪村が自分から赤松に声をかけてくるときは、仕事の依頼がある時のみである。


「都市推進のフロア見学の日程が変更になったから」


「はああ?二度目だけど!?」


「がんセンターのチームも同行させたいんだと」


「お断りしてくださーい」


「いや、無理。もう黄月には言ってある」


「あっそ、じゃあいんじゃない。別に私に言わなくても」


了解よ了解、とそっけなく赤松が返す。


すでに課長に話が回っているのなら、わざわざ赤松に言いに来る必要なんて無いはずだ。


きょとんとなる結と菊池のことは一切視界に入れずに、雪村が端的に答えた。


「実務するのお前だから、そっち通すのが筋だろ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る