第58話 scarlet-1
ピアスが失くなっていることに気づいたのは、二日後のことだった。
彼の部屋に泊まった翌朝、氷室に起こされて慌ただしく身支度を整えて自宅に戻ってシャワーを浴びたときには、そんなことを確かめる余裕なんて無かった。
久しぶりの筋肉痛と関節痛に、前もこんなだったっけと昔の恋愛を思い出そうとして、瞬時に彼のベッドの匂いとシーツの感触が甦って来て、慌てて思考をストップさせた。
結の体調を気遣って、後で迎えに来ようかと言った氷室に、お願いだから先に会社行ってと懇願して正解だった。
だってまともに会話できるとは思えなかったから。
そりゃあ、学生時代付き合っていたときも、それなりに色んな妄想はしたけれど、あそこまで具体的な妄想をしたことなんて無かった。
バスケ一辺倒で青春を駆け抜けた結は、高校時代を恋愛に費やしたクラスメイトたちより随分遅れていたし、回って来る少女漫画程度の知識しか持っていなかったし、そもそも高校生のうちに氷室とそういうことになるなんて、あり得ないと思っていた。
告白したのも結からで、手をつないだのも結から。
男兄弟で育ったし、女子と喋るのもそんなに得意じゃないと言った彼の言葉を完全に鵜呑みにしていたので、氷室にはストイックなイメージしか持っていなかった。
だから、大学生になって彼に抱きしめられた時には本気で心臓が止まるかと思った。
額へのキスが最大の愛情表現だと信じて疑わなかった相手との一夜は、なかなかセンセーショナルだった。
氷室は終始優しかったし、結を気遣ってくれたけれど、宣言通り明け方まで結を手放そうとはしなかった。
反応を窺いながら一番気持ちいい場所を探って丹念に貪りつくす彼の表情には、ストイックさはもはや皆無。
久しぶりの行為に強張る背中を優しく撫でて甘やかして、けれど逃げる腰を引き寄せる腕には容赦が無くて。
一体どこにそんな一面を隠していたのかと圧倒されてしまった夜だった。
バスルームの鏡でちらっと確かめた背中に残ったいくつもの赤い痕にたまらず蹲ったら、唇を寄せながら何度も可愛いと囁かれたことまでセットで思い出されて、これ本当に仕事行けるのかしらと不安になった。
が、欠勤なんてしようものなら間違いなく氷室が心配して飛んでくることが想像できて、久しぶりに始業ギリギリの電車で出勤した。
外出前にフロアを覗いたけど、まだ来てなかった、というメッセージに、シャワーしてたら遅くなって、と返事をしたら、今日は終日外出だから顔を見られそうにない、とお馴染みになったイチゴのキャラクターのスタンプ付きのメッセージが飛んできて、こっそりホッとした。
酔っていたから飛び込めた彼の腕の中で、自分がどんな反応を示したのかを思い出す度顔から火が出そうになるのだ。
通常モードに戻るまでのインターバルは絶対に必要である。
今日も仕事頑張ろうね、とお決まりの文句を送った直後、夕べの結、すごく可愛かった。と短い一文が届いて、思わずスマホが手から滑り降りて、大急ぎでしゃがんだ拍子に股関節が軋んで、なんだかもう色々居た堪れなくなった。
氷室はどんな顔で仕事をしているんだろう。
学生時代の延長のような交際から、どうにか一歩踏み出して大人になった彼とちゃんと向き合いたくて挑んだ一夜を、彼がどんな風に受け止めたのか物凄く気になる。
そんなことを考えている間にあっという間に定時になって、欠伸しすぎですよーと後輩から笑われて、今日はもう帰って寝るね、と早々に退勤して、氷室にお疲れ様のメッセージだけ送って、一日ぶりの自宅のベッドで朝まで爆睡した。
そして、翌朝いつも通りの時間に起きて、鏡の前で化粧をしている最中にここ二日ほどつけっぱなしだったピアスの存在を思い出したのだ。
小さなダイヤの一粒ピアスは仕事の日の定番のアクセサリーで、帰宅するとネックレス諸々一緒に外してアクセサリーケースの中に片づけるのだが、あの夜は氷室の部屋で過ごしたのでそのお決まりのルーティンはスキップされていた。
片方の耳には、ぎりぎりキャッチで止まった状態のお馴染みのピアスが発見できたものの、もう片方の耳は空っぽ。
ベッドの上を確かめても見つからなかった時点で、あの夜彼の部屋か車で落としたのではと思い至った。
氷室とちゃんと顔を合わせるのは、お泊り以降初めてで、夕べは早々に眠ってしまったのでメッセージの返信も返せていない。
未だに戸惑いと恥ずかしさのほうが大きいけれど、このまま顔を合わさないわけにもいかないので、出社してすぐにイノベーションチームのフロアに向かったが、ホワイトボードに直行の文字を見つけてがっくり肩を落とすことになった。
氷室から届いたメッセージを振り返れば、確かに明日は直行だから午後から出社と書いてあったのだ。
色んなことが抜け落ちてしまっている自分の色ボケ具合が心配になってくる。
二人のハジメテだから、こんなに動揺しているだけなのか、それとも、あの頃思い続けた初めての彼氏とそうなったから、こうなっているのか。
自分の思考回路と反応が、思春期の女子高生のようにしか思えなくてげんなりする。
もうちょっとちゃんとしたしっかり者の大人だと思っていたのに。
ランチタイムのカフェテリアでは、二日連続で赤松と菊池に生温い視線を向けられて、見えるとこに痕ついてないね?えらいじゃない、氷室くん!と菊池が満足気に頷いて、赤松はなんでよ、どっかにあるでしょ!?と全身を舐め回すように確かめて来て、それから舌打ち一つして菊池に千円支払っていた。
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