第3話 baby pink-1

好きな音楽と同じ位、耳に馴染んで、もはや馴染み過ぎている音。


それは、体育館に響くドリブルやシュートの音だ。


中学から大学卒業までずっと続けていたバスケは、趣味というよりはもはや日常の一部のようになっていた。


バッシュを履かない毎日に慣れてしまった今でさえ、近くの中学校の体育館の近くを通るたび胸が弾んで懐かしくなる。


だから、西園寺メディカルセンターの広い敷地の片隅にハーフコートがあることを知った時はすごく嬉しかった。


夢中になってボールを追いかけたあの日々は間違いなく結にとって最高の青春だ。


これに関しては本当に誰にだって胸を張って言えるくらい。


「好きだったなぁ・・・」


いつも無人のハーフコートは、ボールさえ持ってくれば独り占めしてシュート練習も可能なのだが、残念ながら大学卒業して以降ボールに触っていないし、昔使っていたボールは実家に置きっぱなしだ。


手に馴染んでいた皮の感触はもうほとんど残っていない。


そしてそんな眩しい青春の一ページに鮮やかに切り込んで文句なしのシュートを決めたのはやっぱり。


「あ、なんだこっちに居たのか」


「ひゃあああああ!」


真後ろから掛かった声に盛大に悲鳴を上げれば。


「そ、そんなに驚くことないだろ」


「いきなり現れないでよ!」


「いきなりって・・・ここ敷地の中だし、折原専用じゃねぇよ」


ごもっともな意見と共に、まさにいま頭の中に姿を思い浮かべた氷室が困ったような笑みを浮かべた。


それを間近にしたとたん、高校生の頃の自分が顔を出してきゃあきゃあ騒いで胸をときめかせてくるから困る。


いいから、過去の自分あんたはすっこんでなさい!と心の中で叱責して女子高生の頃の結を押し込めるのはもう何度目だろうか。


気易すぎる表情と距離は、彼が結に気を許していることを如実に示していて、恐らく昔の自分だったなら、飛び上がるほど大喜びして接近戦に胸を躍らせたことだろうが、今は違う。


あの頃の彼はこんな風に眉を下げて笑うことはほとんど無かったし、今みたいに気さくでも無かった。


話をするのはいつだって結の方で、緊張して舞い上がって空回りする結に、頷いたり、戸惑ったりしながらどうにか結のことを受け止めるのが彼だった。


恋に対する熱量は誰がどう見ても結のほうが上で、氷室のそれが結を勝る事は最初から最後まで一度もなかった。


座り込んだハーフコートの片隅で、同じように隣にしゃがみ込んだ氷室がひょいとこちらの顔を覗き込んで来る。


高校生の頃の彼なら絶対にしなかった仕草だ。


いつだって目で追いかけるのは結のほうで、コンマ数秒で赤くなって逸らすのが氷室だった。


そして逃げた彼の視線を追いかけて、ちゃんと目を合わせてくれたところで満足して引いた結に、ホッと息を吐くのが氷室だった。


どれだけ独りよがりな恋愛だったんだろう。


「昼もう食べた?」


「ん、食べて来た。氷室くんは?」


「俺はこれから。夕方から長丁場の打ち合わせ入るから、先に資料揃えときたくて」


「お腹空いたでしょ?早く食べておいで」


貴重な昼休憩にわざわざハーフコートまで来ることは無い。


イノベーションチームはただでさえ忙しいのだから。


けれど彼を気遣って口にした結に向かって、氷室は思い切り顔をしかめた。


「なんだよ・・・・・・顔見たくて来たのに」


「え!?」


昔の氷室からは考えられないようなセリフが飛んできて、いや待ってと叫びそうになる。


あの頃はどんなに願っても彼はこんな甘い台詞を口にしてはくれなかった。


だから、大人になった氷室を前にする度、本当に彼は結のよく知る氷室多悸なのかと疑いたくなってしまうのだ。


「なんでそんなびっくりすんの。こっちがえ?だわ。用事ないとこんなとこまで来ないだろ普通。日当たりしか良くない敷地の端っこなんて」


「う・・・あ・・・はい・・・」


恐らく設立スタッフの誰かがバスケ好きだったのだろうと思われるが、誰も使うことのないハーフコートは駐車場のさらに奥に設置されており、施設からもちょっと距離がある。


日向ぼっこ目的でこんな場所まで散歩にやって来る奇特な人間はまずいない。


「迷惑だった?」


鋭く切り込んだと思ったらバックチェンジで進行方向を変えて急に様子見を始める。


氷室のプレイスタイルからはいつだって目を離せなかった。


今だってそうだ。


揺さぶりをかけて来たと思ったら急に引いて、結の表情を確かめて来るから反応に困る。


こちらを伺うように投げられた声に、大慌てで首を横に振る。


ひたすらバスケに打ち込む姿勢に惹かれて、玉砕覚悟で突撃した高校三年生最後の夏。


振られてくるから全力で慰めてね!とチームメイトたちに宣言して会いに行った彼の返事はまさかのOK。


照れたようにすぐにその場を離れてしまった氷室との初めてのお付き合いは、奇跡的に大学に入るまで続いた。


結のほうが追いかけて、追いかけて、追いかけ続けた恋だった。


手を繋ぎたいと言ったのも、名前で呼びたいと言ったのも、最初にキスを仕掛けたのだって。


だから、10年以上経ってそんな相手からこうして積極的に近づいて来られるなんて全く想定外なのだ。


しかも、氷室ときたらあの頃の数倍かっこよくなっている。


あの頃だって他校の女の子がキャーキャー騒いでいたくらい素敵だったのに。


最初に全力で好かれていた自信があるからか、はたまた自分の魅力をよくよく理解しているからか、氷室は結のちょっとした表情の変化を絶対に見落とさない。


だから、いまも結が困惑こそすれ嫌がっていないことは態度と表情で分かっている。


その上でこうして数センチの距離まで近づいてきて、わざわざ尋ねるのだから性質が悪い。


私と別れた後でさぞや素敵な恋愛を沢山経験されたんでしょうね。


「迷惑じゃ・・・ない・・・・・・」


「良かった。今度ボール持ってこようか。フリースローで遊ぶ?」


ふわりと相好を崩した彼がそんな提案を口にする。


「え!?ほんとに?」


「うん。何回か、海沿いのコートで遊んだよな。バスケしてる時の折原は、俺のよく知る折原だったから、なんかホッとしたのよく覚えてるよ」


「普段テンパり過ぎてて悪かったわね」


憧れの氷室の彼女という肩書は、物凄く尊くて大きくて、デートの前日は眠れなかったし、顔を見たらもっと緊張して、彼の返事を待たずに色んな事を一方的に話して沈黙を埋めようと必死だった。


嫌われたくなくて、それ以外のことは何も考えられなかった。


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