序章・月妃は無慈悲な夜の女王③
引っ付いて来る温泉津月妃に、春夏秋冬式織は特に気にする様子も無く彼女と共に歩き出す。
「食堂で何してたの?」
若干の上機嫌な口調に、春夏秋冬式織は食堂でどんぶりのご飯を食べた事を思い出した。
「普通にごはんを食べてただけだ、弁当、忘れて来たからな」
何気ない言葉。
それを二つ返事で了承したかと思えば。
「ふぅん…は?」
足が止まり、春夏秋冬式織は彼女に引っ張られて、体が後ろへと引き寄せられる。
春夏秋冬式織が彼女の方に顔を向けると、先程の上機嫌な表情とは一変して一気に暗い表情になりつつある。
唐突な彼女の変貌に、春夏秋冬式織は決して表情を崩す事無く、彼女の様子を眺めていた。
「つきぴ、お弁当作って無いんだけど?」
唐突な言葉に、春夏秋冬式織はそうだな、と頷いた。
「そりゃあ、お前が作った弁当じゃないからな」
当たり前な事を告げると、温泉津月妃の腕の力が強く籠められる。
体を引っ張られて、温泉津月妃の視線が春夏秋冬式織に近く、目と鼻の先まで顔を近づけた。
牙を剥いて、怒りの表情を見せた温泉津月妃が喋る度に、春夏秋冬式織の肌に吐息がなぞる。
「は?なんで?つきぴ以外の女に弁当作ってもらってるの?」
どうやらそれが、彼女の地雷であったらしい。
自分以外の女に飯を作ってもらい、それを食わせてもらっているなど、前代未聞である。
春夏秋冬式織は、彼女の地雷に気が付き、少し考えながら、やはり、正直に言うのだった。
「あー…まあ、咲来さん、だけど」
咲来。
春夏秋冬式織の家で時稀にやってくるメイドの名前だった。
その名前を伺ったと同時に、春夏秋冬式織に向ける視線に、嫉妬の感情が乗せられていた。
「なんでつきぴが居るのに他の女の名前出してんの?」
彼女にとって、春夏秋冬式織とは全てである。
それ以外の人間など眼中にない、だからこそ、春夏秋冬式織にも、その様に自分以外の人間など眼中に留めて欲しくは無いのだろう。
「落ち着けよ、咲来さんは昔から、メイドとして料理を作ってくれてるだけだ」
彼女もまた仕事であると、春夏秋冬式織は言う。
だが、彼女の感情の暴走は止まる事が無い。
「なんで昔から一緒に居るの?おかしくない?つきぴとは一緒に居てくれなかったのに、それはどうなの?」
結婚の約束をしたのに、それなのに、どうして、他の女に目を奪われるのか、と言う疑問を春夏秋冬式織に投げ掛ける。
それに対して春夏秋冬式織は言った。
「何時も一緒ってワケじゃないだろ、…家の事情で、色んな場所に移動してたんだ」
家庭の事情、親の事情、どちらにしても、春夏秋冬式織が親戚や知り合いの家へと移動していたと言う事実。
だからこそ、彼女、温泉津月妃と別れてしまうのも無理が無い話である。
故に、春夏秋冬式織が温泉津月妃の傍に居る事が出来なかったと言うのも、仕方が無い話だろう。
「それがなに?…つきぴ以外の女でお腹を満たした事実は変わらないでしょ」
春夏秋冬式織の腹部に向けて手を伸ばす。
その細い指先が春夏秋冬式織のワイシャツの間へと滑り込んで、皮膚にネイルが食い込んだ。
表情を変える事無く、春夏秋冬式織は、温泉津月妃の顔を見て言う。
「じゃあ、今度はお前が料理を作ってくれよ、お前が俺を管理すれば良いだけだ」
たかがそれだけの話だろう、と、春夏秋冬式織は悪びれもせず言う。
無論、悪い事など何一つないのだから、春夏秋冬式織の対応は歴然としたものだった。
それに、その言葉を聞いた温泉津月妃は、確かに、と冷静さを取り戻す。
既に、春夏秋冬式織の行動は、過去のものだ、それはどう足掻いても変える事は出来ないので、ならばこそ、これから変えていけば良いだけの話だと、温泉津月妃は納得せざるを得なかった。
「…まあ、それもそっか、じゃあ、今日から死ぬまで、つきぴ以外の料理、食べるの禁止ね」
彼女の言葉は本気だった、他の女の料理は食べないで欲しいと。
「それは約束出来ないな」
「は?…じゃあ、なに、これ以上、つきぴに我慢しろって言うの」
温泉津月妃が春夏秋冬式織の手を離す。
そうして、じっと春夏秋冬式織の方を見て、指を伸ばした。
このまま、首を捥いでやろうかと思ったのだろうか、春夏秋冬式織の首に手を伸ばして、そして止める。
「もういい、知らない、バカ」
温泉津月妃は、涙目になってその場から離れだす。
春夏秋冬式織は、彼女の後姿を見つめながら、居心地が悪く感じながらも、彼女を追った。
教室へと向かうと、温泉津月妃は机に突っ伏している。
周囲は騒然としていた。
あの、温泉津月妃が涙を流して教室へと帰って来たのだ。
あの我儘な姫君が一体、何が起こったのかとそう誰もが思った。
そして、話題の転校生が温泉津月妃の元へとやって来たので、彼女の涙の原因は、この男にあると、即座に確信したのだろう。
「月妃」
春夏秋冬式織が温泉津月妃の元へ向かう。
そうして、温泉津月妃に近づいて、彼女の髪を指で梳いた。
「うわ、何を急に」「殺されるぞ…」
事情を知らぬ生徒からすれば、温泉津月妃に触れる事は、自殺行為に等しい行いだ。
彼女は男性が嫌いである、彼女に手を出して無事で済んだものは居ない。
それは肉体的に、精神的に、社会的に、その何れかでもあるし、その全てでもあるのだ。
だが、温泉津月妃は何もしない。
それどころか、顔を挙げて、温泉津月妃は春夏秋冬式織を見た。
「つきぴの事、好きじゃないんでしょ、つきぴ以外の女の方が好きなんでしょ?じゃあ、つきぴは要らない子なんでしょ?」
「そんな事は無い、お前と約束をしたあの日から、温泉津月妃は俺の中での大切な人だよ」
優しい言葉を掛けて、髪紐で髪を結っていく。
瞳から流れる涙を拭いながら、温泉津月妃は鼻を鳴らす。
「だから泣くなよ、そういうのが、俺が一番悲しい事だからな」
大切な人だからこそ、涙を流されるのは心が痛むのだ。
そう言われた温泉津月妃は、春夏秋冬式織に向けて、両手を広げた。
「駄目、許さない…ギュッてしてっ」
甘えた口調で、温泉津月妃が言った。
その言葉に、春夏秋冬式織は応える、わき目もふらず、彼女に向けて手を広げると、温泉津月妃は、春夏秋冬式織の首に手を回して強く抱き締める。
腕だけではない、その両足を、クワガタムシの様に広げて、春夏秋冬式織の腰に巻き付いた。
「え、だ、だいしゅきホールド…」「あの月妃さまがッ」「なんだ、なんだよ、これ、夢、なのか?!」
強く抱き締める温泉津月妃。
春夏秋冬式織は、椅子に座って、温泉津月妃が満足するまで、背中を優しく撫でていた。
「泣き止んだか?」
「…ダメ、まだこうして」
昼休み終了のチャイムが鳴り出す。
それでも、温泉津月妃は構わず、春夏秋冬式織に抱き締める様に命令し、それを春夏秋冬式織は、彼女が満足するまで抱き締めた。
「許してくれよ、月妃」
優しい口調で懇願する春夏秋冬式織に、温泉津月妃はゆっくりと口を開いて言う。
「…わかった、今日は、赦してあげる…ほかの女よりも、つきぴが一番だったら、それで許してあげる」
温泉津月妃の独占欲に塗れた言葉に、春夏秋冬式織は口を彼女の耳に近づけた。
「分かった、一番だな…一番だよ、お前は」
春夏秋冬式織の言葉は、赤ん坊をあやす子守歌の様に、温泉津月妃の脳内を揺らしていく。
心地良く感じながらも、しかし、温泉津月妃の頭の中では分かっている。
「(シキの言う一番は、誰でも、一番、平等って意味でしょ…今はそれでいい、けど…何れは、私が、本当の一番に…)」
事情を知っている温泉津月妃は、心の内で、その様に思い続けていた。
春夏秋冬式織には、複数の婚約者がいると言う事実に。
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