第5話 木洩日視点

 小日向エンマの棲家すみかは、本に溺れていた。

 紙とインク、あと埃の匂い。蔵書量ゆえか、暖かな室温がまとわりつく。差し出されたお茶は、『鹿の王』の上に置かれた。


「びっくらぽん」


 小日向はシャワーを浴びている。僕は注意深く部屋の内装を観察する。

 広いとは言えないアパートの一室に、数千冊はあろうか書物の塔。


 それだけならまだいい。いや、それだけなのが大問題。

 本棚はもちろん、椅子やテレビからなる調度品の一切が彼女の家にはなく。生活感を排したありようは違和感を通り越して不気味でさえあった。


「はじめての女の子の部屋……」

 これではとんだ現代アートじゃないか。

 

 タイトル『飽和した娯楽と退廃する自我』つって。


 ようは小日向。君の自給自足率はゼロなわけ。

 食は外で済まし、洗濯はコインランドリー。

 しまうものがないから棚はいらない。来客はあり得ないから机や椅子さえ必要ない。寝床は本の上で済ますというのか。


 お金さえあるのなら。家としての体をなしていない棲家であっても、生活できてしまえるという事実に、小六はただ困惑した。


 はて、家族愛はお外でも得られるのか?


 そうこうしていると、小日向が身支度を整え終えたよう。すこし終わるのが早すぎた気もしたが、まぁ当然か……。


「おまたせ。ごめんなさい、散らかってて」

 小日向はニット帽をかぶり、ラフな上下のジャージを着ていた。日頃目にする彼女の基本スタイルだ。


「本、好きなんですね」

「それ以外の趣味、ないから」

「外で遊んだりは?」


 首を横にふる。彼女の苛烈なランから察するに、運動が苦手というわけではなさそう。


「これからは僕がいます。一緒にたくさん遊ぼうね」

 にっこり。起伏の激しい小日向の表情は見ていて飽きない。


「木洩日くん、午後の授業、どうする?」

「どうせ怒られるなら、サボりが得」

「悪い子だ!」


 あたりまえじゃん、僕は生来のいたずらっ子だ。悪戯はわるいたわむれと書く。


「家族とかは?」

「大丈夫」


 魔法使いはみな、『運命の出会い』なんてものを求めて、人の世に紛れている。僕たちに課せられた義務はない。


 小日向エンマ。君は僕の運命たり得るか?

 なんてね。


「そっちは?」

「私も」

 みればわかるよ。


 おたがい、愉快な境遇にあるようだ。

 詮索はしない。


「結論から話すね。魔法があれば、僕は君の望む場所へ、すぐにでも連れていってあげられると思います」


 なんていい笑顔だ。期待だろう、嬉々とした。

 犬ころだってもう少し節度があるよ。

 うぅ、みつめるな。弾けるんだ、心音が。


「僕は理知的な魔法使いだから。ただで連れて行くほど、能天気にはなれない」

 いや、心は快晴日本晴れ、さしたる違いはないのかも?


「先に教えて。どうして小日向さんは、『どこか』を求めているの?」


 じじ様の教え。

『物語は、話を聞かなければ始まらないもんよ。たとえそれが、ばば様の無益な愚痴でもね。男は女の話を聞くために生まれてきたんだ』


「木洩日くんは、生きていて楽しいですか?」

 質問返し。

「またえらくおもい……」


 少し考える。父母とあまり出会えないのはさびしいが、祖父母がいてくれるので辛くはない。


 人社会での生活は堅苦しいが、刺激もおおく興味深い。

 ちょうど、友達も新しくできたところ。

 現段階では——。


「楽しいと思うよ」

「うん、だよね。生きるのが楽しいから、私たちは息が吸える」

 独特な思考だ。彼女の感性に半身を寄せる。


「わたしは毎日三回、死にたくなります」

「……どうして?」


「全てが、お前は違うと指を刺す……」

 そこから二の句が出ない。まつよ小日向。焦らなくても大丈夫だよ。


「私は、みんなとは違うのです」

 うん。


「同じになりたいって、思っていた時期もあったけれど。その度に無理だって。現実を突きつけられて。もう、諦めちゃった」

 うん。


「諦めるたびに一回、私は死にたくなる」


「だから、生きるのが辛い?」

「ううん。私ね、幸せを知っているの。ご飯が美味しいことや、お日向が温かいこと。本が読めることもそう。なにより、お空が綺麗、お花が可愛い、近所の人が挨拶してくれた! みたいな。ありふれた幸せを知っているの」


『なんと今日はお友達ができました!』

 はしゃがないで。僕の涙腺はもろいんだぞ。


「生きるのが楽しいよ。とてもね」


 なら、どうして。


「どうしてそんな……」


 幸せだとうそぶく彼女の表情は、けれど死に汚れていた。


「怖いの。いまは幸せがたくさんだから、楽しいよ。でもね、もしも幸せの数が、『死にたい』の数よりすくなくなっちゃったら。私はきっと、褪せた空を眺めて、死んじゃうんだ」


 幸せを幸せだと思えなくなるのが。

 大人になるのが。

 彼女はとても怖い。


「詩的な表現だね」

「本ばっか読んでるもん。あたまの中は、たくさんの言葉でぐちゃぐちゃだよ」

 この部屋みたいに、氾濫はんらんしているんだね。


「本を読んでいたら、死にたいだらけの世界から、遠ざかることができた。でも、本を読んでいるときは、いつだって一人だ」

 あぁ、だから君は。


「死にたくないから。生きていたいから。どこか遠くへ。誰もわたしに指差さない世界へ。行ってみたいのかもね」


 そしたらようやく。

「死に怯えなくて済む」


 だから僕は、君に惹かれたのかもしれない。


 小日向、君はセーラームーンなんかじゃない。お月様に隠れた、暗い太陽なんだ。


 決して明るくはないけれど。輝きを恐れ、暗がりに潜んでいるわけでは決してない。ただ、沈むのが恐ろしくて仕方がないだけなんだ。


 ありがとう小日向。君の理由を教えてくれて。

 なら、ここからは僕の理由だ。


 所在であり、いたずらの犯行動機であり。男の見せ所だ。


「小日向さん、遊びに行こう。そしてせいぜい、めいいっぱい楽しもう」


 小日向の手を引いて。

 靴を履いて。つま先で地を鳴らして。


 さぁ小日向、ドアを開いて。



 みたことのない世界へ——。

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