第3話 幸せな気持ち side:綾音

▼ side:綾音 △


 同じクラスの井ノ出くんは、本気で“催眠術”を信じているようだった。

 そんなの掛かるわけないのに。


 今目の前で揺れる五円玉を見て、わたしは反応に困っていた。


 どうしよう、これ……。


 このままも可哀想だし、掛かったフリをしてあげようかな。



「……」

「音無さんの目が虚ろに!?」



 でも、これが初めて井ノ出くんと話すキッカケとなった。まずはここから初めてみてもいいのかな。



 それから、付き合っている人だとか聞かれて普通に答えた。



 催眠術?

 そんなの掛かってない。

 けど、案外これはこれで面白かった。

 彼の反応がいちいち可愛かったからだ。



 それにしても、いつまで続くんだろう……。そろそろ、ぼうっとするのも疲れたなー。なんて思っていると、井ノ出くんは『俺とキスしてくれ』なんて言ってきた。



 え、うそ……キス?


 ちょ、待ってよ。


 わたし、キスなんてしたことないよ。嫌じゃないけど……こ、困ったなぁ。まだ心の準備とかできていない。


 ……うぅ。


 どうしよう、どうしよう。


 催眠術にかかっているフリはしているけど、いるけど――恥ずかしいっ!


 あ、でも……催眠状態だから……いいのかな。


 いいよね……!?



 だって、わたしは井ノ出くんが好きなんだもん。

 消しゴムのことは嘘だけど、彼が好きになったのはもっと別のこと。あれがなかったら、ここまでしてあげなかった。


 今のわたしは、どうしようもないくらい井ノ出くんが気になっている。


 ここまで男の子を好きになったことはない。初めて、こんなにドキドキしている。


 でも、どうやって話せばいいか分からなかった。


 だから、この催眠術は……凄く良いタイミングだった。



 キス……キスか。



 今しかないよね。



 わたしは決心した。

 井ノ出くんにキスをすると……。



 そうすれば、きっと他の男子は寄ってこなくなるし、井ノ出くんを取ろうと思う女子もいなくなるはず。


 短絡的すぎるかもしれない。

 けれど、この機会を逃すだなんて……できない。



 そっと彼の頬に触れ、わたしは唇を近づけていく。



 井ノ出くんは、びっくりしていたけど――そのまま唇に重ねた。



「…………っ」



 甘くて蕩けるような感触。

 脳がピリピリ焼ける。


 ……なんだろう。すごく幸せ。


 好きな人とキスをするって、こんなにも幸せな気持ちになれるんだ。知らなかったな。


 ただ、あくまで、わたしは催眠術にかかっている状態。彼に気持ちは伝わっていないはず。むしろ、変に捉えられてしまったかも。


 不安が過ぎると、彼は教室を去って行った。



 ……あ、逃げた。



 逃げることないのに。

 まあいいか、これで少しは話しやすくなった。




 翌日になって、わたしはキスのことを「夢の中でだけどね」と彼に話した。彼は催眠術が本物だと確信していた。


 でも、違う。

 わたしの演技が完璧すぎたのだ。


 ……面白いから、もう少し掛かったフリをしていようっと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る