二.松前家老・下国安芸崇教
「村田、奥羽諸国の視察大儀であった。面を上げよ」
「……はっ」
登城した小藤太を出迎えたのは、勘解由に代わって執政筆頭となった下国安芸であった。四十六である小藤太よりも十程年長なその顔には、苦悩の色が浮かんでいた。
(下国様も辛いお立場、か)
その複雑な心中を察するも、小藤太に同情の色はない。松前の文字通り要であった勘解由を失った責は安芸にもある。彼ほどの男が何故、正議隊の暴走を止められなかったのか、徳広への謁見を許してしまったのかという、呆れにも似た怒りだけがあった。
「村田、儂を情けない男だと思っておろうな」
「滅相もございません」
「よい。御先代が――崇広様が生きておられたなら、お叱りを受けたことだろうよ」
安芸は五代の主君に仕えた古株の家老だ。特に先代の崇広から重用され、名の一字を賜り「崇教」と改めた程だ。腹心之臣である。
崇広は外様の出でありながら、徳川の老中も務めた異色の経歴の持ち主であった。西洋の事情に通じ文武に優れ、徳川の陸軍海軍の総裁を務めたことさえある。
だが、兵庫開港を巡り、朝廷の意に反して諸外国の要求を呑み開港を決定したことで、阿部正外と共に老中の職を解かれ官位も剥奪。謹慎を命ぜられることとなった。
そもそも、諸外国が武力をちらつかせ、更には徳川を通り越して直接朝廷と交渉しようと目論んだものを、崇広と正外が必死に止めようと考えたのが事の起こりである。二人は徳川の権威が名実ともに地に落ちるのを、防ごうとしたのだ。
だが、その思いが通じることはなく、徳川は朝廷に首を垂れた。ある意味でこれが、徳川崩壊の鏑矢であったとも言える。そのまま故郷松前の地へと都落ちした崇広は、失意のまま急病に倒れ帰らぬ人となった。
無念という他なかった。その無念を誰よりも知る一人である安芸が、正議隊等という軽挙妄動の権化に手を貸したのだ。崇広が草葉の陰で泣いているのは疑いようもない。
「おそれながら下国様。事は急を要します。感傷に浸っている暇はございません。無頼の輩が政を掌握したままでは、勝てる戦も勝てませぬ。松前のお家大事と考えるのなら、下国様にしゃんとしていただかなければなりません」
「ふん。相変わらず痛い所を一刀両断にしてくれるな、村田。『男谷の小天狗』は健在という訳か――良い、そちが調べ上げてきた全てを、儂に話せ」
「ははっ」
小藤太の中には、安芸を見損なう思いが確かにあった。勘解由を殺された怒りもある。
しかし、松前の家が生き残るには、実務に優れ政の経験も多いこの男に一働きも二働きもしてもらわねば困るのだ。武芸者として生きてきた小藤太は、あくまでも合理で物を考えていた。
小藤太は剣の道を極める為に江戸は男谷道場へと弟子入りし、若き日々を修行に費やした。その頃の名を久間吉と言った。
僅か五尺二寸の背丈ながらも面打ちと組打ちにおいて非凡な才を発揮し、誰ともなく「男谷の小天狗」と呼ぶようになった剣客である。
その評判を聞きつけた崇広は小藤太を大いに気に入り、自らの御手直役として登用した。小藤太にとって崇広は大恩ある主であり、その崇広が遺した松前の家を守ることは何よりも優先されるのだ。
――小藤太より奥羽諸国の実情を伝え聞いた安芸の決断は、早かった。
複数の軍艦を擁する徳川残党軍相手では、松前は明らかに分が悪い。最も懸念されたのが、松前城が海を臨むが故の海上からの砲撃に対する脆弱さである。そこで安芸は、崇広の時代より計画されていた内陸の
次に懸念されたのは、正議隊の反応だ。彼らは猪武者の集団である。守りを固めるよりも攻め手をこそ準備するべきだと言いかねない。だが意外にも、正議隊の面々は安芸の提案に従った。
もちろん、これには裏があった。正議隊は、微禄の青年家臣達の中にあった譜代の松前家臣達への不平不満を巧みに焚きつけることによって、勢いを増した集団だ。彼らの不満は松前城下を牛耳る商人へも向けられていた。
そこで彼らが手を結んだのは、館に近い港町・
こうして皮肉にも、小藤太と安芸の目論見とは裏腹に、正議隊はますます力を増し本格的に松前家中を掌握していった。日々目まぐるしく変わってく情勢など、気にもせずに。
元号は慶応から明治へと変わった。
会津は遂に落ちた。
戦火は松前の目前まで迫りつつあった。
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