松前、燃ゆ
澤田慎梧
一.松前家臣・村田小藤太
慶応四年(一八六八年)八月。主命を受け奥羽諸国の情勢を探っていた松前家臣・
鳥羽伏見に端を発する新政府軍と徳川残党軍の戦は、苛烈を極めている。既に奥羽越の幾つかの大名は、新政府へ恭順の姿勢を見せていた。
そのような情勢もあって、松前もそれに続くべきか、それとも徳川への義理を果たすべきか、家中は二つに割れていた。小藤太の持ち帰った情報を元に家中の意見をまとめようというのが、当主・
既に、奥羽越列藩同盟は形だけのもの。徹底抗戦の姿勢を見せているのは、会津くらいのものだ。新政府軍の勢いはすさまじく、その会津も程なく落ちると小藤太は睨んでいた。
この事実を伝えれば、家中の意見は一気に新政府寄りとなるだろう。
だが――。
(なにやら城下がきな臭いな)
久方振りに戻ってきた城下福山町は、何やら剣呑な雰囲気に包まれていた。戦の気配を感じて気が立っているのとも違う。何かに怯えるような空気が漂っていた。
松前家は蝦夷地唯一の大名家である。米の育たぬ土地故に、水産物やアイヌとの貿易によって得られる利益を財政の基盤とした変わり種だ。その分、商人達の勢いが強く、城下は活気に溢れていたのだが、今やその面影はない。
道行く人々は顔を伏せ、武家である小藤太と目を合わそうともしない。まるで、見知らぬ国へやってきたかのような居心地の悪さを、小藤太は感じていた。
そこいらの町人でも捕まえて事情を訊きだす手もあったが、あまりに無粋だ。そう考えた小藤太は、まずは自宅へ戻り身だしなみを整え、一刻も早く登城すべきと判断し足を速めた。
「ただ今帰ったぞ」
「父上! お待ち申し上げておりました」
自宅へ戻ると、長男の良太郎が血相を変えて飛んできた。数えで十五歳になる利発そうな顔も今は土気色で、何か変事があったことを如実に知らせている。
「落ち着きが足らんぞ良太郎――何があった」
「はっ。実は、ご家老様が、松前勘解由様が身罷られました。つい先日のことでございます」
「なんだと。良太郎、仔細を話せ」
勘解由は小藤太よりも年少の四十であり、持病なども持たなかったはずだ。それが急に身罷るとは、ただ事ではない。どうやら小藤太が不在の間に、大きな変事があったようだ。
「はっ。実は――」
良太郎の話はこうであった。
去る七月二十八日、一部の過激な勤王志士が「
鈴木らは家老の下国安芸を半ば脅す形で当主・徳広への謁見を成すと、病弱により前後不覚であった徳広をそそのかし、親徳川の家臣を一掃する言質を取ってしまった。これには勘解由も含まれていた。
勘解由は外様の筆頭家老でありながらも、かのペリー提督を相手に強かな交渉を繰り広げたこともある逸材だ。徳川の覚えもめでたかった。
その手腕は新政府と徳川残党とで揺れる情勢の中でも発揮され、新政府に渡りを付ける一方で徳川残党とも真正面から敵対せぬという、のらりくらりとした外交で松前を守っていた。
だが、その態度が正議隊の面々には優柔不断と映ったらしい。正議隊は親徳川の重臣達を次々と捕らえ、あるいは暗殺し、勘解由も屋敷へと軟禁。勘解由はそのまま、主命と称して切腹を迫られ、果てたとのことだった。
「愚かな」
小藤太の口から、思わず侮蔑の言葉が漏れる。松前は先代当主・崇広が江戸表で徳川の要職に就いていたこともあり、未だに徳川に同情的な向きも多い。その一方で、度々に渡って徳川の事情で領地を召し上げられ、アイヌとの交易にも口を出されるなど、不平不満もあった。
松前と徳川は愛憎入り混じる関係であり、単純に敵味方と割り切れるものではない。
そして松前には、徳川残党と敵対した場合、対抗出来るだけの戦力がない。残党とはいえ、軍艦を擁する戦力だ。その一部は奥羽を越え、この蝦夷地までやってくる気配すらある。彼らと直接に事を構えるのは、あまりに無謀であった。
それ故に徳広と勘解由は、先代以来の忠臣である小藤太に奥羽諸国の情勢を探らせていたのだ。一つ判断を間違えれば、松前は戦場の露と消えると知っていたが故に。正議隊とやらの暴走で、それが全てご破算になってしまった。
そもそも、徳広が彼らの暴走を許さなければ済んだ話なのだが――。
「良太郎。殿のお加減はそれほど悪いのか?」
「はい。伝え聞いた話では、既にご自分で身を起こすこともままならぬ、とか」
先代である崇広は文武両道を絵に描いたような英傑であった。が、その後を継いだ徳広は文化人ではあったが生来体が弱い。最近では肺の病に侵され、一日の大半を前後不覚のまま過ごすことも多かった。それ故に勘解由が傍に付き従い支えていたのだ。
しかし、家中にはそれを勘解由による独裁と誤解する者も多かった。正議隊の連中も恐らくはその口であろう。
「急ぎ城へ参る。支度せい」
「はっ!」
慌しく室内へ駆けていく良太郎の背中を眺めながら、小藤太はそこで初めて大きな溜息をついた。
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