中間管理職のため息なんて、誰が聞きたい?

和泉茉樹

中間管理職のため息なんて、誰が聞きたい?

      ◆


 それで?

 ルーガーの問いかけに、事務所の実務管理者であるキャスパは眉間に深い皺を寄せながら、自制心を最大限に発揮して答えた。

「救助に向かって欲しい。地下迷宮、四十八層だ」

「ふーん」

 腕組みをしながら、ルーガーは楽しそうにニヤついている。それはキャスパの怒りをあおったが、立場からして、キャスパにはその怒りを心の内に押し込めるしかなかった。もっとも、表情や雰囲気には、強すぎるほどに感情が滲んでいたが。

 そんなことは全くお構いなしに、ルーガーが飄々と言葉にする。

「あんたが俺をクビにしたのは、確か一ヶ月前だったよな」

「そうだ。それは私の責任ではない。お前が救うべき冒険者を五人ばかり、犠牲にしたからだ」

「表現が違うぞ、キャスパ。犠牲じゃない。二度と仕事ができなくはなったが、五体満足だ」

 同じことだ、と吐き捨てるように言う管理者に、ルーガーはニヤついている。

「ともかく、あんたが俺を無職にして、俺はここ一ヶ月、実に気楽に過ごすことができた。退職金はなかったが、俺は賢いから生活資金がたんまりあったからな」

「退職金がない理由を覚えているか、ルーガー」

「俺の方から辞退したはずだが」

「違う。お前をクビにしたのは、一ヶ月前で六回目だ。私たちはお前の実力を見込んで、六回雇い、六回クビにしたということだ。間抜けなことだが」

「俺からすれば、六回も雇われてやった、ということになるがね」

「うち以外でお前を雇おうとする酔狂な奴はいないだろうよ。戦力にはなるが、無責任だ」

「無責任? 地下迷宮で立ち往生するようなパーティを運用するあんたこそ、無責任じゃないか?」

 耐えきれないというように、キャスパが疲労そのままのため息を吐いた。

「ルーガー、今回の件は予想外なんだ。立ち往生したパーティは、一級集団に認定されている」

「あんたの事務所の中で?」

「いいや、事務所連絡会の、公式の認定だ。本来なら第四十八層から戻れなくなるような連中ではない」

「事実は違うようだがね、キャスパ。もしあんたの言う通りなら、俺は昼寝を中断させられることはないし、あんたも俺と改めて顔を合わせる必要もなかっただろうな」

「不測の事態は常にある。そしてそのためにお前がいる」

「俺が? 俺はもうあんたらの事務所の救難部隊の一員じゃない。一ヶ月前に、クビになっている。それにまだ、改めて雇われるかは決めていない」

 なあ、とキャスパが情けない声を漏らす。

「ルーガー、他に頼りになる奴がいないんだ。お前が事務所に与えた損害は無視できないが、たった今、仲間が死ぬのは耐え難い。だから、頭を下げているんだ。みっともないとは思うが、仲間には代えられない」

「あんたにはプライドってもんがないのかい、キャスパ」

「プライドを捨てることで仲間が助かるなら、いくらでも捨てるよ。ドブにも、肥溜めにも捨ててやるさ。だから頼む、ルーガー」

 参ったね、と不敵な口調で答えるルーガーには、もちろん参った様子などなかった。

「一応、聞いておいてやるが、キャスパ、いくら払う?」

「一〇〇万ダラーだ」

「一〇〇万ダラーで、パーティ一つを救出しろと? 何人だ?」

「八人だ」

「なら一人当たり、五〇万は出せよ」

「四〇〇万ダラーだと? 事務所を潰す気か!」

「払えないなら、他を当たりな。ご自慢の救難部隊を抱えているはずだが、連中はどうした」

「三人が腹痛、五人が発熱、二人が葬式に行っていて、二人が別の仕事に行っている」

「腹痛と発熱は仮病だろう。大した事務所じゃないか」

 あまりいじめんでくれ、とキャスパが漏らすのに、同情するよ、とルーガーは善意に満ちた笑みを見せる。見せるが、その笑みがすぐに悪意そのものへ反転する。

「十人分の仕事を引き受けてやるよ、キャスパ。それなら四〇〇万も安かろう」

「事務所が倒産する。二〇〇万で手を打ってくれ。それが限界だ」

「仲間の命を値引きするつもりか?」

「おいおい、ルーガー、頼むよ。たった今も、仲間が危険の只中にいる。お前とこうやって歓談している間にも、一人が倒れ、もう一人が倒れ、ということがあるんだ。俺としても、お前を口説くのを長引かせたくない。もう他の事務所に頼もうかとも思っている。さあ、答えてくれ、ルーガー。受けるか、受けないか」

「仕方ないな。キャスパ」

 パッとキャスパの表情が明るく変わるが、次には影が落ちることになった。

「三〇〇万で引き受けるよ。俺に落ち度があれば、幾らかは返してやる。それでいこう」

 がめつい奴め、とキャスパは思ったが、ルーガーは平常通り、何の動揺もないし、余裕たっぷりだった。こうして人命救助に関して議論しているというのに、キャスパにはある危機感が、ルーガーには一分も共有されていなかった。

 こいつには人命というものがわからないのか、とキャスパは言いたいところだったが、彼自身が言った通り、仲間はこの瞬間にも危険に晒されている。

 三〇〇万が安いか、高いか。

 事務所の経営が傾く。しかし社員がいれば、事務所は経営できるかもしれない。命あっての物種、というどこかの言葉をキャスパは脳内で繰り返し唱えた。自分に催眠をかけるようなものだった。そうしなければ、目の前で悠然としている凄腕の傭兵を放り出してしまいそうだった。

 目の前の男の実力が三割ほど低ければ、引き止める理由はない。

 目の前の男にもっと善意があれば、と思ったが、それは望んでも手に入らないものの筆頭だった。

「払おう」

「いいのかい。三〇〇万だぜ、キャスパ。そもそも払えるのか?」

「話は終わりだ、ルーガー。八人揃えて、連れ帰れ。それで三〇〇万はお前のものだ」

「よかろう。契約成立だ」

 ルーガーが差し出した手を、キャスパは悪魔と契約する思いで握り返した。

 手を放す前に、ルーガーが言葉をつけたす。

「正式な書類を用意してくれ。そこにサインしてから、仕事が始まる。常識だよな」

 奈落に突き落とされたような感覚の中で、キャスパは書類を用意した。

 ルーガーは何を考えているのか、この時は実に退屈そうに様子を眺めていた。


      ◆


 キャスパの執務室を出て、冒険者事務所の一角にあるポーター室にルーガーは足早に向かった。

 室内に入ると、事務机が一つあり、壁には無数の地図が貼られている。地下迷宮の各階層の詳細図だった。

 事務机に向かって書類を作っていた少女が立ち上がり、眼を細める。鋭い視線に、しかしルーガーは全く動じなかった。

「久しぶりだな、ニナ」

「お久しぶり、ルーガー。またこの事務所に入社したってわけ? 退職金目当て?」

「今回は日雇いだ。どこぞの八人組を救いに行く。第四十八層。転移座標はこれだ」

 ルーガーはキャスパから受け取った数列の書かれた紙片をニナに渡す。彼女はその数列を一瞥すると、壁の地図の一枚の前に進み出て、指でなぞり始める。

 しかしすぐに振り返った。

「オーケー、ルーガー。すぐ行けるよ」

「じゃ、飛ばしてくれ」

 ふぅん、とニナが胡散臭そうにルーガーを見た。

「その格好で行くわけ? 装備は?」

「俺だって無職で遊んでいたわけじゃない。転移術を勉強したんだ」

「それはご立派なこと。しくじらないように、私がサポートしてあげましょうか」

「いい練習になる。自分でやるさ。さ、急いだ方がいい。キャスパと長話をしたんでな、救難対象がとっくにくたばっている可能性があろうという状況で、そうなると、俺は報酬を貰えないし、キャスパに殺されるかもしれない」

「キャスパさんが現役だったら、あなたを八つ裂きにすると思うな」

「奴が今は老ぼれで助かったよ。急げよ、ニナ」

 キャスパが老ぼれなどと表現されていると知ればどうなることか、と思ったが、ニナは忘れることにいた。

 緊張した様子もなく立っているルーガーに両手を向ける。

 その指先で火花が散る。

 同時に彼女の両目が緑色に光り、溶け出したかのように揺らめく。

「お気をつけて、ルーガー」

 その言葉はほとんどかき消された。

 ルーガーの体は細かな光の粒子となって粉々になり、部屋には彼がいた痕跡は一つもなかった。

 やれやれ、というようにニナは事務机に戻り、その机の上に置かれている無数の砂時計の一つをひっくり返した。一時間で全部の砂が落ちるようになっている。一時間がルーガーに与えられた時間だった。一時間が経てば、ニナは物体をどこへでも転移させるポーターの力を使って、ルーガーを回収する。

 もしルーガーが仕事を終えていれば、八人も一緒に戻るはずだ。

 しかし、と砂時計を見ながら、ニナは考えていた。ルーガーがどれだけ仕事に真剣になるかは、疑問だ。

 そんなことを思っているうちに、他の砂時計の砂が全て下へ落ちた。座ったばかりの椅子から立ち上がると、ニナは何もない空間に両手を突き出す。

 激しい火花と、彼女の両目から放射される眩しい光。

 それが消えたとき、部屋にはボロボロの装備を身につけた冒険者が四人、座り込んでいた。

「お帰りなさい」

 ニナの言葉に四人は安堵したためか、ついに姿勢を維持できずに床に伸びるように倒れ込み、返事もしない。

 礼くらい言いなさいよ。冒険者っていうのは、これだから。

 乱暴な動作でニナは椅子に戻り、事務机の上を確認した。

 次の仕事まではもう少し、時間がありそうだった。彼女はたった今、連れ戻した冒険者たちに関する記録を帳面へ書き込み始めた。


       ◆


 ルーガーはいつの間にか自分が巨大な洞窟の中にいるのを理解した。

 本来なら闇に閉ざされているはずだが、ほの青い光が周囲を照らしている。それは壁に埋め込まれた小さな青い火によるものだ。魔法の産物である、不滅灯である。空気中の魔力を取り込み、いつまでも燃え続ける。木などを燃やしているわけではないので、息苦しさなどはない。

 安全を確認してから、ルーガーは手の中に、はるかに離れた地上から装備の一つを呼び出した。ニナが使ったのと同じ転移魔法でだ。

 手の中に、杭のようなものが出現する。小さな赤い宝石がはめ込まれており、一定の間隔で赤い光が明滅する。ニナに回収してもらうための目印であるそれを、ルーガーは力を込めて地面に突き立てた。岩が砕け、杭が固定される。

 さて、とルーガーは周囲の情報を把握するべく、五感を研ぎ澄ませる。

 魔法が知覚を補助するため、薄暗がりも問題にならず、また些細な音も理解出来る。皮膚感覚さえも向上するため、じっとりとした空気の不快感が増し、ルーガーは思わず顔をしかめる。

 それも短い時間のこと、目的の対象を見つけ、駆け出す。

 手元で光が瞬くと、そこに一振りの刀が出現し、次にはルーガーの全身が光に覆われる。弾けて光が消えたときには、ルーガーは真銀製の軽鎧に包まれている。地下に王国を持つ古ドワーフが鍛え、作り上げた鎧である。

 闇の中を疾駆するうちに、はっきりと人の声が聞こえてくる。

 それをかき消す咆哮にも。

 闇の中から滲み出すように、巨大な竜が現れた。洞窟の空間をすべて埋めるような巨体である。天井すれすれ、見上げる位置にトカゲのような頭部があるが、竜の迫力に勝るものはこの世にはないと思わせる圧力がある。

 その足元に八人の人間が見える。八人ともが、ルーガーの方へ必死の形相で走っている。竜が八人を追っている形だが、あまりにも空間が狭いせいで身動きに不自由しているようだ。こうしている間にも竜の頭部や首、前足の根元の肩だろうあたりが洞窟の天井や壁を崩している。

 八人がルーガーに気づく前に、竜が口を開く。ずらりと鋭い牙が並ぶが、それよりも重大な脅威が降り掛かろうとしていた。口腔の奥で赤い光が渦巻く。

 咆哮と共に爆発的に膨れ上がった劫火が吹き荒れる。

 火炎放射は、八人を容赦なく巻き込むはずだった。

 ルーガーが飛び込んでいなければ、事実、そうなっただろう。

 いつ鞘から抜いたのか、刀を大上段から振り下ろしたルーガーの目と鼻の先で、竜の火炎がバラバラに散って消えていく。

 冒険者八人のパーティがあっけにとられた様子で、倒れこんだ姿勢で動けなくなる。そこへルーガーが平然と愚痴を浴びせる。

「さっさと逃げろよ。死にたいなら止めないが、誰かが死ぬと俺の稼ぎが減る。ほら、いけ」

 その間にも竜の前足がルーガーめがけて打ち振るわれている。人の背丈ほどもある爪を三本まとめて、ルーガーの刀が受け止める。

 大抵の物体を粉砕する鋭さと頑強さ、剛力が揃っている竜の一撃だったが、ルーガーの刀は苦もなく受け止める。ルーガー自身も圧力に耐えるが、体が滑る。靴底の鋲が火花を上げながら地面を削るが、それでもルーガーの姿勢は乱れなかった。

 冒険者たちはあまりの光景に呆然といったところだった。竜と一人で渡り合う冒険者など、伝説の中でしか知らない。一級集団に認定されている彼らでさえ、同様の評価の集団と連合し、総勢で五十名を揃えなければ、竜と対抗することなどできない。

 そもそもこの第四十八層という中間層ともされる深度に竜が出現するのが異例だった。はるか昔には中間層にも竜が存在したというが、おおよそが駆逐され、竜も深層に退いている。

 だからこそ八人組の冒険者たちを責めるのは間違いと言える。彼らは自分たちの実力に見合った場所で、相応の稼ぎを求めていただけなのだ。

 何はともあれ、竜の爪を弾き返しながら、ほらほら、とルーガーは余裕を見せて、片手を刀の柄から離して振ってみせてまでして、八人を促した。

「とっとと下がりな。そこにいられると邪魔だ」

「あ、あんた、死んじまうぞ」

 冒険者の一人がほとんど無意識に言葉にするが、ルーガーには何の感銘も与えなかった。普段通りの、人を食った口調で応じる。

「死なない確信があるから仕事を受けたのさ。俺の命を心配する前に、俺の稼ぎを心配してくれ。さっさと行けってば。ほら、火炎放射で丸焼けになるぜ」

 竜がぐっと首をたわめるようにして、口を開く。

 ワッと冒険者たちが駆け出して距離を取ろうとするのに、まるで壁になるようにルーガーが直立する。人間が一人で立っていることなど、竜の火炎放射には何の障害にもならないはずだった。

 応じるように、ルーガーの刀の切っ先が天井を向く。

 フゥっと、ルーガーの口から息が漏れる。気温が低いわけでもないはずが、息が白く染まる。

 ルーガーの刀、竜の爪を研ぎ上げた竜刀の刃に力が収束する。竜はそのうちに強大な魔力を持つが、竜の体の構造はその魔力をさらに増幅する性質を持っている。人間離れしたルーガーの魔力が竜刀のうちで増幅され、圧倒的な剣気へと変質していった。

 竜が最大出力の火炎で、ルーガーとその奥に位置する八人の冒険者をいっぺんに焼き払おうとするのを、万全の姿勢でルーガーが迎え撃つ。

 豪! と竜の解き放った火炎は、もはや炎の津波に等しかった。

 人間など、一瞬で蒸発するような超超高熱に、ルーガーの一撃が衝突する。

 激しすぎる光を、冒険者たちは背中で受け、前方に自分の影が伸びたのも刹那のこと、何も見えなくなった。

 遅れて轟音がやってくるが、同時に地面が波打つほどの揺れが彼らを襲い、足をもつれされる。八人ともが転倒したところに、今度は熱風が襲いかかる。悲鳴が上がり、彼らの露出した肌に火傷が生じる。

 一人として生き残れると思えるものはいなかったが、光が消え、音が消え、不自然なほど簡単に熱が消え、そうなって初めて、八人は自分たちがまだ生きていることを理解した。

 激しい煙がゆっくりと晴れると不滅灯の光だけが周囲を照らし、先ほどまでの騒動が嘘だったように静けさが彼らを包み込んでいた。

 ゆっくりと彼らは背後を見る。

 見て、絶句していた。

 落盤が起きて、手の届きそうなところで洞窟は完全に塞がっていた。ルーガーの姿は、ない。

 誰も何も言えなかった。自分たちの責任だ、と思ったが、もはや取り返しの効く状況ではない。

 地下迷宮につきものの魔物は竜の出現と相前後して姿を消していたが、落盤により洞窟の奥からの魔物の追撃の可能性は無くなっていた。結論としては、安全になった、と冒険者たちは自分たちの状況を判断するしかなかったが、後味のいいものではない。

 戻ろう、と一人が言うと、八人ともが身を起こし、歩き出した。彼らが慣れ親しんだ地下迷宮の光景がそこにあり、竜がいたこと、ルーガーがいたことは、八人が大なり小なり負っている火傷だけが証明していた。

 歩いていくうちに、地面に突き立てられた杭が見えた。赤い光が目を引く。ポーターによる転移魔法の座標を示す目印である。冒険者たちは足を速めて、杭のそばに達すると、最も疲弊の少ないものが杭に触れた。これで事務所にいるポーターに繋がり、緊急の転移魔法で救助してくれるのである。

 ポーターの強力な魔法が発動するまでの間、八人は洞窟の奥を見ていた。

 助けに来た男が戻ってくるのでは、と思わずにはいられなかったが、誰かがやってくる様子はない。足音もしない。気配も。

 しんとした沈黙が八人にのしかかり、誰も口を開かなかった。

 不意に彼らの周りに光の粒子が飛び交い始める。その光が弾けるように強くなり、何も見えなくなったかと思うと次には空気が変質していた。

 地下迷宮の湿った不快な空気ではなく、地上の澄んだ空気。

 八人は冒険者事務所のポーター室にいつの間にか移動していた。部屋の主である魔法使いのニナが、胡乱げな顔で彼らを見ている。

 戻ってきた、と八人ともが思い、よろめいて座り込んだ。

「これで全員?」

 ニナの問いかけに、八人の中のリーダー格の男が「いえ……」と言い淀む。途端にニナが責めるような目つきになり、冷ややかな言葉を向ける。

「救助に行った男がいないようだけど、どうしたわけ」

「それが」

 ニナは説明を聞いてから、彼らに医務室へ行くように伝えて追い出すと、一人になって壁の地図の前に立った。

 第四十八層の詳細図は中間層であることもあり、探索されていない部分はない。最初に攻略されてから四十年は過ぎている。地図製作者が完成を宣言している領域である。もっともその地図を少し修正する必要がある、とニナは地図を見て思っていた。

 様子を見るか。

 彼女は壁の前を離れると、事務机の上の砂時計を確認する。今、砂を落としているのはルーガーを連れ戻す期限を示す砂時計だけだ。

 時間が余っているとは幸運なこと、と内心で呟きつつ、ニナは椅子に座り、一度、体を脱力させた。

 目を閉じ、意識を拡散させる。自分がなくなるような錯覚とともに、意識が体から溶け出す。そのまま散逸すると死んでしまう。ニナの精神力が、意識を肉体の外でまとめあげる。

 体を離れたニナの意識体が、ポーターとしての転移魔法で自身をはるか地下、地下迷宮第四十八層へ転移させる。

 彼女は洞窟の中の自分を理解し、奥へ進む。

 すぐに報告通りの落盤の現場があった。意識体はどんな物体でもすり抜ける事ができる。洞窟を塞ぐ岩塊も彼女を止めることはできない。するすると岩の中を透過して奥へ。

 空間が広がると、そこはまた不滅灯に照らされた洞窟である。擬似知覚を発揮してニナは耳を澄ませて音を聞き取ろうとした。だが、竜の咆哮は少しも聞こえない。物音一つしかなった。

 いや、かすかに湿った音がする。

 ニナの意識体が先へ進む。すると巨大な物体が洞窟を塞ぐように横たわっているのが影として見えてきた。なんだ? とニナが気を引かれていると、何かが動いたのが見て取れた。

 それは、人だった。巨大なものに棒を叩きつけているように見えたが、巨大なものは竜の死骸で、叩きつけているのは刃物らしい。

 相手が不意に振り返り、薄明かりの中でもわかる獰猛な笑みを見せた。ニナは背筋が冷えた気がしたが、この時の彼女には肉体がないわけだから、錯覚にすぎない。しかし錯覚の正体、紛れもない恐怖というものがニナの精神には生じていた。

「ニナか」

 声を聞けば、そこにいるのがルーガーだとわかる。

(何をしているわけ)

 思念で問いかけると、男は平然と応じた。

「狩りの成果をまとめているところ」

 狩り? 竜を狩ったというのか。

 不穏なものを感じたが、踏み込むと危険が降りかかるような気がして、ニナは追及をやめた。

(帰る気はある? 私がいないと岩盤を掘るか、遠回りしないと戻れないわよ。あなたと私の紐付けは、もうちょっとで切れるけど)

「すぐ帰る。しかしお互い、仕事熱心だな」そう言ってから、付け足すようにルーガーが続ける。「あの冒険者諸君は無事に戻れたか?」

(ええ、八人が全員、戻ったわ)

「そいつはよかった。三〇〇万はもらえるな」

 その一言で、ニナにはピンとくるものがあったが、言わないでおいた。この男は、人命救助をついでの仕事だと思っていたのだろうと、ニナは確信した。

(戻りましょう)

 荷物をまとめたらな、とルーガーはそっけなく応じると、竜の解体を再開した。

 ニナは気分が悪くなるのを防ぐために、そっぽに視線を向け、聴覚と嗅覚をほとんど閉鎖したのだった。


       ◆


 冒険者事務所のキャスパの執務室にルーガーは戻った。全身がドロドロに汚れており、酷い異臭を放っていたが、キャスパを不機嫌にさせたのはそれが理由ではない。三〇〇万ダラーをきっちりと支払わなくてはいけない。言い逃れもできなければ、値切ることもできないのが、キャスパを憂鬱にさせた。

「というわけで、支払い期限は五日後くらいにしておくよ。前倒しで払ってくれても構わないぜ」

「五日後に支払う。さあ、もうお前に用はない。帰ってくれ」

 キャスパがそう言って手を振り、ルーガーが楽しげに笑って身を翻そうとした時、部屋に入ってきた女性がいる。長身で、すらりとした人物で、周囲を圧倒するような美貌である。キャスパはこの人物を前にすると年甲斐もなく緊張するが、ルーガーは友人を前にしたように気楽な様子である。

「やあ、副所長殿、お久しぶり」

 副所長のシャリンはルーガーの気楽な言葉に、微笑んでみせる。そうすると元々の美貌も相まって、大抵の男がほだされる表情になる。

「ルーガー、あなた、竜を中間層までおびき出したわね」

 何? と思わずキャスパが声を漏らす。ルーガーは無言。シャリンが嬉しそうに笑いながら話を先へ進める。

「竜を狩りたいのなら、一人でやりなさいね。周りに迷惑をかけるのではなく」

「本当はもっとうまくやるつもりだったさ」

 悪びれた様子もなく応じるルーガー。

「そちらさんの冒険者は不運だったな」

「黙っていてあげるから、報酬は二〇〇万で我慢しなさいね」

「副所長殿は大胆だ。簡単に負けると思うか?」

「竜を解体したものを売り払えば、三〇〇万はくだらないでしょう。違うかしら?」

「かもな。仕方ない二〇〇万で我慢しよう」

 平然と受け流すルーガーと、それを引き出したシャリンに、キャスパは渋面を作る。

 部屋を出ようとするルーガーの背中に、キャスパが言葉を向けた。

「今回の件、他の事務所の皆さんには黙っておいてあげるから、支払いは五十回払いでよろしくね。構わないわよね?」

 さすがにルーガーが勢い良く振り返るが、シャリンに見据えられてしまえば反論のしようもないのだった。竜を一人で相手取って、あまつさえ倒してしまう戦士は、ただ嘆かわし気に首を振り、肩を竦めると今度こそ部屋を出て行った。

「キャスパさん」

 自分より年下の副所長が向き直るのに、キャスパは背筋を伸ばす。

「あまり足元を見られないように。事務所が倒産すると、あなたも困るでしょう」

 恐縮したように返事をするキャスパに微笑みかけてから、シャリンも部屋を出て行った。その歩き方さえも優雅で、上品だった。美の女神の化身、という表現を見る者に与えずにはおかない。

 執務室に一人になり、キャスパは深くため息を吐いた。

 そこへ扉がノックされ、返事をすると部下の一人が入ってくる。明らかに困りごとを持ち込む表情をしており、何よりキャスパに判断を仰ぐ意思がありありと見て取れた。

 もうこれ以上の厄介ごとはごめんだと思いながら、キャスパは逃げることはできない。

 これが今の彼の仕事だった。冒険者を引退して自由になれるはずだったが、現実ではこうやって事務仕事をしなければ生活できない。

 いつかルーガーの奴もそうなる、いや、そうなるように仕向けてやる。

 そう固く誓いながら、キャスパは部下の話を聞く姿勢をとった。なんでも聞いてやる、対応してやるという心構えで話を聞くが、話が進むにつれて憂鬱さだけが増して行った。この憂鬱の膨張に対抗する術はなかった。

 話が終わり、部下を前に改めてキャスパはため息をついた。

 そして、なんとか捻り出した次善策を口にした。その最後に一言付け加えるのを彼は自制できなかった。

「俺は頼りにならないんだ」

 部下は楽しそうに苦笑いし、キャスパは反射的に彼に書類の束をぶつけたのだった。

 舞い落ちる書類を見ながら、キャスパは鋭い頭痛に頭に手をやって、内心、呟いた。このままだと、心労で死ぬかもしれん。

 またも口から溜息が漏れた。

 日に日に重みを増していく溜息が。



(了)

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