第13話
視る者の心を浄化するような白を纏う金魚。
妖怪の類であると疑っていた透は、その金魚に対しては不思議と恐怖心を抱かなかった。
「っ、市杵島姫命様!」
烏橙が白金魚に向かって叫ぶ。白金魚は現状下を見渡すと、烏橙の時のように人型へと変化させた。
その姿はまるで天女。
彼女の周りに漂い始める清らかな風に、その場にいる誰もが動けずにいた。
「……烏橙」
「――御意!」
市杵島姫命に名を呼ばれた烏橙は一瞬にして影泥の拘束から逃れた。突然のことに、影泥は何度も烏橙を捕まえていたはずの場所を確認している。烏橙はとうに、市杵島姫命の手許にあるというのに。
そう、手許にある。市杵島姫命を守る、刃として。
握られた烏橙の刀身は、ゆらりと淡い橙色の炎を纏っている。清い色だった。もし触れてしまっても、全てを包み込んでくれるような色だった。
烏橙は神使であり、市杵島姫命が神事の折に使用する神器のひとつでもあった。
彼の能力は、その地一帯の穢れを焼き祓い浄化させる『焔』。強力な神器ゆえに、彼は自我を持つ。
市杵島姫命が一振り烏橙を振るう。その時、彼女の半径五メートル範囲に
一振り、たったの一振りだ。それも軽く振るっただけで、影泥の妖域は清い空気の満ちる領域に転じた。
祓われる者としての自覚を持ってしまった影泥は、怖れをなして、透の拘束を解きその場を逃げ出してしまった。突然拘束を解かれた透の体は、宙に浮いていたため落下を始める。
「きゃあ‼ ――……?」
透は落下の衝撃に備えて目を瞑っていたが、いつまでも来ない痛みに首を傾げた。目をゆっくりと開ければ、彼女は何故か市杵島姫命の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「え……」
「大事ないか、透」
「あ、はい……。どうして私の……」
名前を知っているの、と言葉を続けようとした透の口元に、市杵島姫命の細く白い人差し指が優しく触れる。静かに顔を上げ市杵島姫命の様子を窺えば、透の言葉を制した彼女の視線は逃げ出した影泥に向けられていた。
標的を捉えた市杵島姫命は、烏橙を地に突き刺した。
「――
たった一言、市杵島姫命は言葉を紡いだ。
それは静かな言霊だった。
耳を澄まさなければ、聴こえないほど。
静寂の中に水が一滴、ちゃぷんと音を立て落ちたような感覚に息を呑む。
瞬間、烏橙の刀身から炎が燃え盛り、逃げ惑う影泥を一気に追い詰め、そして——その全てを燃やし尽くしたのだった。
◆◇◆◇◆
火の粉は宙を舞い、妖域内に
「烏橙」
再び市杵島姫命は『彼』の名を呼んだ。
刀身であった烏橙は瞬きの間に人型に姿を変え、何も言わず彼女の傍に控えた。
「……透」
透き通った声が、透の耳に届く。ゆっくりと声のした方へと視線を上げれば、市杵島姫命が彼女に微笑み掛けていた。
見たことのある、吸い込まれそうな橙色の瞳。見つめられて思わず胸が鳴る。しかしふとどこかで、透はこの色を見たことがあると思った。
――金魚さん、どうしたの。ここにはお水が無いよ。このままじゃ、金魚さんがしんじゃう。……そうだ。とおるが、金魚さんをお水のところに連れて行ってあげるよ! ――
それは幼き頃に、親とはぐれてしまった透が出逢った小さな神様。温かさを秘めた不思議な白い金魚。
その実体は、土地神でもある市杵島姫命であった。
「……そうだ、思い出した……。あなたはあの時の金魚……?」
「……」
透の中で眠っていたはずの神との対峙の記憶は、完全に開け放たれてしまった。
市杵島姫命は少しだけ困ったような笑顔を浮かべた。笑顔を見ているはずなのに、どうしてだか透には切なく思えてならなかった。
(……やっと思い出せたのに、どうしてこんなにも悲しいんだろう)
嬉しい気持ちと切ない気持ちが入り乱れる。
この感情をどうにかしなければと思うほど、透の瞳からは雫が溢れるのだった。
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