第18話
枝は、完全に湖に落ちる前に、何者かの手によって受け止められた。
「……櫻爾……様、なのか?」
先ほどまで鹿の姿をしていたはずの櫻爾が、両角を携えて人型で晴たちの前に現れた。身長は晴よりも少し高めで、日本の生き物の中でかけ離れた美しい容姿をしていた。そして昨日までは無かった両角には桜が力強く咲いていた。愁いを帯びた翡翠の双眸は健在で、見つめられたなら誰もが自然と胸が高鳴るだろう。
黒い羽織を纏う櫻爾。鹿の姿に慣れていたおかげで、晴は目の前の櫻爾が別人のように思えた。
隣に、彼女はいなかった。
彼の手にあるのは〝桜花の誉〟と呼ばれる、神礼物である桜の枝だった。
「流石は四季。見事な刀技だった」
「……それは、ありがとう」
どうやら四季も、神である櫻爾の姿を認識しているらしい。完全な実体での人型の顕現ということに、晴はどこか寂しさを覚えてしまう。それはおそらく、晴の前を過ぎた彼から桜の花香が微量に香ったことが理由だろう。
「行実殿。これから彼岸屋へ戻り、二日ほど休息を得ようと思う」
「承知いたしました。では早速帰宅の準備を……櫻爾様?」
晴が奥伊勢湖を離れようとした時、櫻爾の気配を感じなかった。振り返ると櫻爾はそこに静かに佇んでいた。その場所を去ることを名残惜しそうに、眉をひそめながら、そこに立っていた。
「……すまない。もう少しだけ……ほんの少しだけで構わない。少しだけこの場に、いてもいいだろうか?」
震えた声音に、いたたまれない気持ちが込み上げる。
今回のこの『御神送り』が終了すれば、今年はもうこの場所に訪れることはできないだろう。
傍にいたいと願い続けた主との再会は、あまりにも短すぎた。
「櫻爾様」
「分かっている、直ぐに戻る、戻るゆえ――」
「大丈夫ですよ、そんな心配しなくても。鳴なら、きっと……いや、絶対に許してくれると思います」
「しかし……これは契約違反に触れるのでは」
「……櫻爾様が望まれるなら、俺はいくらでも付き添います」
「…………」
櫻爾は何かを言おうとしていたが、晴の心域に胸打たれたのか口を噤んだ。そしてゆっくりと頭を下げると、掠れた声で「ありがとう」と言った。
今は少しでも長く。長く。彼らがともにあれる時間を。
晴は桜の大樹の前に残る櫻爾を見つめながら、新宿でひとり待つ自分の主のことを思い浮かべるのだった。
◆◇◆◇◆
「……本当によかったの? めいめい、怒らない?」
晴が奥伊勢湖の畔で『御神送り』に使用している式神の牛車にもたれかかりながら、近くの自販機で購入したペットボトルのお茶を飲んでいると四季がそんなことを訊いた。晴は少し考えてから四季の質問に答えた。
「怒んねェよ、こんなことくらいで。それに、契約違反だったとしても、相手は四季神。かの神の心を守ることに比べれば違反なんて些細なことだよ」
「違反は違反なんだ」
「違反というか……。そもそも護衛官として付き添えるのは、神事の終始から行き帰りまでの時間だからな。……それに、神様が絶対だと言っても、言われたこと全部訊いてたらこっちの身が持たないだろ? ただの人が、彼らの望みをすべて叶えられる訳がないんだ」
申し訳ないんだけどな、と晴は困った顔で笑った。
「ただの人だもの。仕方がない。でも、今回は特別?」
「……まあ、私情込みで、かな」
「行実は、悪者だね」
「それでも、鳴だって同じ状況下にいたら同じことをするさ」
「……そうだね。めいめいなら、するね」
晴の思考のすべては、鳴への貢献に繋がるものだ。その「彼らの願い」が彼岸屋への利益に還元されると判断すれば、晴はいつもその願いをあらゆる手を使って叶えてきた。鳴に報告をすることもあれば、してこなかったものもある。それはひとえに鳴の心体への負担を考えてのことだった。
「……行実」
四季は晴に声をかけると、彼の目の前に四季の〝冬〟を差し出した。
「完成した。これ、渡すよ」
「ありがとう」
晴は四季から〝冬〟を受け取る。それは水面下を揺らぐような刃文の中に雪華が舞い落ちているような、美しく、汚れのない刀だった。
「刃文は、使い主を観察してからじゃないと私は入れられないんだ。特に〝冬〟の作はね。実際、あんたが来てくれてよかったよ。あんたが来てようやく、この子は命を手に入れた。名は――〝
大切にしてやって、と言われて晴は思わずハッとした。
今彼が手にしているものは、ただの刀ではない。五百万円もの価値がある、神をも裁くという御神刀だ。そう思い始めたが最後、晴は苦笑する以外に表情を作ることができなくなっていた。
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