第6話

 花梨屋に着いたのは居酒屋を出発してから約一時間後のことだった。なんとか日を跨ぐ前に帰ることができたのは幸いだった。慣れないことはするもんじゃないな、と久し振りに汗を掻いた鳴は苦笑した。


 とりあえず従業員に晴のことを任せ、鳴は汗を流そうと温泉へと向かった。

 この花梨屋は温泉で有名な旅館だ。竜神を祀る山の麓にこの旅館が位置するため、神聖な湧き水の温泉が売りなのである。


 立ち込める湯気の中から鳴が陶器のように白い細い足を晒す。深夜帯ということもあって利用客は鳴しかいなかった。好都合だった。鳴は無意識に左胸元に手を当てる。そこには赤い大輪を咲かせた、彼岸花の火傷が浮かび上がっていた。

 この火傷痕は、五年前に事故で受けたものだ。生死を彷徨う程の重傷だった。大きく残ってしまったこの火傷痕は、まるで花のように美しく咲いている。


 一生消えることのない、妖艶さの香る痕。


 晴は鳴のこの火傷痕を見る度にとても辛そうな表情をするが、鳴にとってこの痕は『証』であり『誇り』だった。


 湯船に浸かり、空を見上げる。露天風呂の醍醐味とも言える満天の星が月の光に照らされて開けた世界で煌々と輝いていた。


「…………なんか……晴に申し訳ないなあ……」


 はあ……、と思わず溜め息が出る。うれいを帯びた吐息は湯気の中へと溶けていく。

 鳴は輝く星空を見上げながら、今回の旅行のを思い出す。

『あの件』を晴に黙ったまま、この旅行を完遂すること。そして、自分の目的を果たすこと。


「……騙してるみたいだ……」


 ポチャン……。

 呟いた声は、濡れた髪から滴り落ちた水滴と共に、湯船に波紋を作り出した。


 ◆◇◆◇◆


 温泉を満喫し泊まる部屋に戻るとすでに布団が準備されており、その片方には相方である晴が頬をほんのり赤くしながらすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。あれだけ酔っぱらっていたから気分でも悪くしていないだろうかと心配していたが、それはどうやら杞憂だったようでほっとする。


 夜とはいえ、夏の夜は蒸し暑い。鳴は部屋の戸を少し開け、風通しを良くし、持ってきた私物の扇子を広げてゆっくりと晴に向け仰ぐ。気持ち涼しく感じるので、持ってきて良かったと鳴は静かに微笑んだ。暑苦しかったのか眉間に皺を寄せていた晴だったが、仰いだ風が当たるとその皺は少しだけ緩んだような気がした。


 時刻は日付を超えた頃だ。周囲が自然の多い土地であるから木々の掠れる音や虫と蛙の合唱が遠くで響いている。煩さと愛おしさが入り混じる音に鳴は楽しくなった。


「……ごめんなさい……晴……」


 同時に、いたたまれない気持ちに呑まれる。


「——何が『ごめんなさい』なんだ?」


「……晴」


 先程まで気持ち良さそうに眠っていた晴が、傍にあった鳴の手を掴んだ。そこまで力は強くなくとも、鳴はその手を振り解けなかった。晴に不安を悟られないよう笑顔を作る。晴は怪訝そうな表情をした。


「……その顔に僕が弱いこと知ってて、わざとやってます?」

「そう思うなら、そう思っておけ」

「んふ。じゃあそう思っておきます。……怒ってますか、嘘を……吐いたこと」


 晴は鳴の存在を確かめるように掴んだ手を指に絡めていく。その行為は決まって、晴が鳴のことで不安になっている時の癖だった。


「本当はだったが、旅行だと嘘を吐いたことか?」

「……んふ。すごいなあ晴は。なんでもお見通しだ」

「茶化すな、馬鹿が」


 扇子が晴の目の端に映る。あれは鳴が仕事の際にしか使わない特別なものだ。これを見たで、鳴に指摘するべきだったのだ。今回の旅の目的は『仕事』だったのだろう? と。晴は少しだけ後悔した。


「……半分は本当で、半分は嘘です。晴の言う通り、今回の旅行は出張のようなものを兼ねています。竜神を神宿へお迎えし、梅雨を呼ぶようにと。……でも、旅行もちゃんと楽しんできなさいと、父さんが」

「…………お前はどうなんだ」

「え……?」

「雨乞祭は明日だったろ。今日だけでも、ちゃんと楽しめたか?」


 仕事を兼ねた旅行。道中はしっかりと楽しめていたのか。仕事となると一直線に進んでしまう鳴の性格だ、ずっと頭にはそのことが渦巻いていたはずだ。晴としてはただ純粋に鳴が今日を楽しめたかどうかが気掛かりだった。

 鳴は優しく晴に微笑んだ。それが答えだと言われたようなものだった。


「晴のおかげです。とても、楽しかったですよ」

「……そうか」

「うわっ!」


 急に強く手を引っ張られ、鳴は横になっていた晴の胸の中へと雪崩れ込んだ。何が面白いのか晴は笑っていた。その笑顔は久し振りに心から笑っている、そんな笑顔だった。


「何が面白いんですか、この酔っぱらいめ」

「いいじゃあねェか。一緒に寝よう、鳴」


 あの頃みたいにさ、と段々と小さくなっていく晴の声に若干の焦りが募る。けれど、それは杞憂だったようで、晴は鳴の心配など他所に満足げな表情を浮かべながら再び眠りについたのだった。最近寝不足気味だったもんね、と薄っすらと浮かぶ彼の目元のに親指を当てる。


「……一緒に寝たら、少しは眠れるかな……?」


 鳴は晴にぴったりとくっつくようにして布団に潜り込む。ほんのりと温かい体温に急激に眠気が押し寄せる。うとうととしていると、開いたままの戸先に小さな竜の姿を見た。しかし一度瞬くと小さな竜は消えてしまった。明日の仕事で竜神を迎えに行くから、意識してしまって幻でも見たのだろうか。

 抗えない眠気に負けた鳴は、そのまま晴の腕枕に抱かれるようにして深い眠りについたのだった。

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