こんな町は嫌いだった

異端者

『こんな町は嫌いだった』本文

「あんた、暇ならコロの散歩にでも行ってきたらどうだい?」

 午後、母が俺に向かってそう言った。

 俺は正月休みに実家に帰ってきて、ごろごろしているところだった。

 正直、働きに出ていた東京に比べると、三重県、特にここ南伊勢町は何もない所だった。

 たまには実家に帰って来いと言われて正月休みに帰ってきたものの、年が明けると既に退屈していた。

「ああ、分かった。行くよ」

 俺は仕方なく、といった風に返事をした。

 コロは、実家で飼っているオスの白い柴犬だ。もう10歳近い年齢で、老犬と言っても差し支えない。

 俺が庭に出て散歩用のリードを手にすると、それを見ていたコロが嬉しそうに尻尾を振った。

 俺はコロを手早くリードに繋ぐと、糞取り用のスコップと袋を手にして散歩に出かけた。


 外の風は寒かった。

 当たり前だ。日本の大半が1月の初めは寒いだろう。

 だが、その寒さが殺伐とした俺の思考を加速させる。

 コロはそんなことお構いなしにあちこちの匂いを嗅いで回っている。

 目に入るのは昔からある漁師町特有のゴチャゴチャした街並み。狭くて入り組んだ道路。車一台通るのがやっとだから、実家に帰ってくる時は無意識に「対向車が来ませんように」と祈ることになる。

 また、田舎特有のベタベタした親戚付き合いも嫌いだった。帰ってくるとまず親戚への挨拶回り。それだけでもぐっと疲れた気分になる。それも無遠慮に「結婚はまだか」などと聞いてくるので、疲れることこの上ない。

 ――こっちは働きに街に出たんだ。嫁探しに行った訳じゃない。

 実際、仕事と日常生活が精一杯でそんな余裕はなかった。

 ふいにコロが吠えた。

 そちらを見ると、猿が走ってくところだった。

 ――またか。

 この南伊勢町では、猿の出没がとにかく多い。それも真昼間から堂々と現れて、民家の冷蔵庫を開けて食料を奪っていくことが知られていた。

 対策を講じようにも、年寄りばかりになってきた町よりも猿の方が活気があった。

 元々、コロも番犬として、猿除けの効果も期待して飼われたものだった。

 もっとも、猿にしてみれば、繋がれた老犬など大した脅威でもないだろうが。

 潮の匂いが漂ってくる。海の見える道に出た。

 海――と言っても、観光地にあるような広々として綺麗な砂浜ではない。

 申し訳程度の海岸があるだけで、ギリギリまで建物が建てられている。広い所もあるにはあるが、波消しブロックが無造作に置かれ景観を台無しにしている所も多かった。

 それでもまだ、寄せて引く波を見ていると心が落ち着く気がした。

 こんな田舎の漁師町では何も観光資源になるような物はないと思うが、同じ三重県の漁師町でも大王町は「絵描きの町」として売り出してそれなりに成功しているそうだ。

 遠くの海には、竿のような支柱が何本も突き出ている。あれに網を張って、アオサ(アオサノリ)の養殖をしているのだ。あと少ししたら、網一面に広がった緑色のアオサを収穫するのだろう。


 ――そういえば、アオサの生産は三重県が全国一だったな。確か生産量の6割……。


 はっきり言って、あんな海藻、どこでもあるしどこでも採れると思っていた。

 それがそうではないと知ったのは、東京に出てからだった。

 コロがふいに引っ張った。どうやら知らぬ間に随分と長い間立ち止まっていたらしい。

 俺は再び歩き出した。

 コロは自分が先導している気なのか、どんどん歩いていく。

 既に日が暮れ始めていた。冬の日没は早い。俺は足を速めた。

 しかし、今度はコロがあちこちの匂いを嗅ぎたがり一向に足が進まない。

 無理矢理引っ張っていくが、どこにそんな力があるのかと思えるような強固な力で抵抗してくる。それでも無理に引っ張るとほとんど引きずるような感じになった。


 結局、家に帰りついたのはとっぷりと日が暮れてからだった。

 俺が庭にコロを繋いで、餌を出してやると、老犬とは思えぬほどの勢いでガツガツと食べだした。

「お前なあ……」

 俺は呆れてそう言ったが、それ以上何も言えなかった。

 家に入ってしばらくすると、母は夕食ができたと呼んできた。

 居間に向かうと、白米とおせち料理の残りと味噌汁が用意してあり、父はもう食べ始めていた。

「もう食べ始めてるのか」

「ああ、お前も汁が冷めないうちに食べた方がいいぞ」

 父は食べながらそう言った。

 母もやって来ると食べ始めた。俺もそれに続いた。

 味噌汁はアオサ入りだった。

「そう言えば、アオサって三重県の名産品らしいな」

 俺は思い出して言った。

「そうだ。昔は今程食べられていなかったらしいな。確か――」

 そう言って父が話し出した。

 昔、亡き祖父の若い頃は養殖などしていなかったそうだ。

 潮が引いた時に、海岸の岩に貼り付いているイソモンと呼ばれる小さな巻貝等と一緒に採ってきて食べていたらしい。もっとも、それでは量も採れなかったこともあってか、多くは地元で食べられているだけだったそうだ。

 それが1950年代になって県内で養殖が盛んとなり、養殖に適した環境があったため生産量は全国一となったらしかった。

「昔はアオサなんてワカメと同じように全国で食べられていると思ってたんだけど、違ったんだな……」

 俺はアオサの味噌汁を一口飲んでから言った。

 昔はあって当たり前だと思っていた物が、そうではなかった。

 味噌の茶色の上にアオサの緑が浮いていた。その風味は食欲をそそり、少し甘みもあった。


 ――美味い。


 率直な感想だった。乾燥させたアオサを水で戻して入れただけの味噌汁……それがこんなに美味いとは……。

 味噌汁からアオサを取ってご飯に乗せて食べる――美味い。味噌の味とアオサの味がご飯によく合っていた。


 正直、何もない町だと思っていた。古臭くてゴチャゴチャしていて、何の取り柄もない町。

 だが、それも悪くない気がした。

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