ラブソングには耳を塞いで

@yorunoakari

ラブソングには耳を塞いで

いつからだろう。

ラブソングに、恋愛ドラマに、恋バナに、違和感を覚えるようになったのは。ともすれば、気持ち悪くさえなるようになったのは。

いつから私は、異常になってしまったのだろう。


「久しぶりに帆乃と会うんだけど、3人で集まらない?」

大学一年生の夏、そんな連絡が美玖からきた。帆乃と美玖と私は、高校の部活動が同じで、クラスは違っていたがよく一緒にいた。私はせっかくだしと思い、「ぜひ会いたい」と返答し、待ち合わせの時間や場所を教えてもらった。

私たちはファミレスに入った。油のにおいときゃあきゃあ騒ぐ子どもや高校生、その年でハンバーグを食べるのは健康に悪いのではないかと思う年齢の老人など、様々な人がいた。何もかも違う人々が、天気の良い日曜日の午後にファミレスを食べに来ていることを不思議に思った。

私たちは2階へ上がり、腰を下ろした。高校生の頃、帰り道に3人でコロッケを食べ歩いたことを思い出した。

各々が進学した大学での講義のこと、元クラスメイトの恋愛事情、結婚した担任のことなどを一通り話したころ、そういえばね、と美玖が切り出した。

「彼氏の誕生日にあげるプレゼントどうすればいいかな」

美玖は恋愛の話をするとき、唇を触る癖があるらしい。本人は無意識だろうが、男子部員と一緒に帰ったと報告してくるとき、好きな人と話せたことを報告してくるとき、いつもそうだった。私は嫌な気持ちになった。高校生活を思い出したから。ここにいる私たち自身の恋愛の話が、始まるから。

「なんだろう、靴下とかかな?」

誰かと付き合ったことがない私は、いつの日かSNSで見た「彼氏が喜ぶプレゼント」という投稿を思い出しそう言った。「ああ、でも私付き合ったことないから、あんまりわからないや」と笑顔で付け足した。私よりは経験のありそうな帆乃に託そうと思い、隣を見た。

「メッセージカードはつけるといいんじゃないかな」

帆乃は、うつむき少し考えてから、そう言った。

私はこの会話が早く終わってほしかった。誰とも付き合ったことのない私に彼氏への誕プレの相談をされても、適切なことは言えないし、そもそも男子にプレゼントをあげることを考えたことすらないのだ。きっと私が何を言っても、美玖には響かないはずだった。だって、私には恋人がいたことがないのだから。

美玖と帆乃が討論しているのを、私は笑顔を作りながら聞いていた。本当は笑顔なんか作る必要ないのだろう。でもこの場面で仏頂面でいるほど私は子どもではないし、彼氏がいるのをねたんでいるのだと誤解されたくなかった。私は必死に違うことを考えるようにした。なぜこの2人はこんなにも楽しそうに恋バナをしているのだろう。なぜ人の恋愛にまで頭を使わなければならないのだろう。なぜ私には彼氏がいないのだろう。そこに明確な理由はあるのか。彼氏がいないのは、いけないことなのではないか。私には、誰かと付き合うだけの価値がないのではないか。彼氏がいる、またはいたことのあるこの2人と私の決定的な違いが見えるようで見えない。いつもそうだった。


久しぶりに、高校3年間で濃密にかかわった友達と話したのは楽しかったが、いく分刺激的過ぎて疲れた。私は家に着くと、布団を敷き、天井を見つめる。

彼氏ができないのは、私に問題があるのか。そもそも、私は彼氏がほしいのか。なぜ世の中の人々は、ああも簡単に恋人ができるのだろうか。

最近、同じことばかりを考えている。結局、結論はこうなる。

恋はタイミングが重要。今までの恋愛は、単に縁がなかっただけ。だから、私には問題ないはずだ。彼氏は、きっと欲しいのだと思う。よくわからないけれど。

友達ののろけ話を聞いているときも、街中で親密そうに腕を絡めながら通り過ぎていく男女を見かけるときも、「いいなあ」と思うから。周りのみんなだって、彼氏がほしいと言っているから。何の疑問も持たず恋人の存在を望むのが普通なのだ。

何度も繰り返されてきたこの問いは、この答えで完結させることにした。これ以上考え続けても、どんどん自分のことが嫌いになってしまう気がしたから。恋をすることに疑問を持ち続けてしまう自分を、消したかったから。私は目をつむり、高校時代のクラスメイトが夢に出てこないことを願った。


自分がノンセクシャルかもしれないと気づいたのは、大学生になって1年がたとうとしているときだった。まさに青天の霹靂だった。なんとなく見ていたネットニュースに、アセクシャルをカミングアウトしたモデルの記事が出ていた。ネットで調べてみると、アセクシャルは恋愛感情・性的感情ともに少ない又はない人であるそうだ。ノンセクシャルは、恋愛感情はあるが性的感情に結びつかない。過去に好きな人がいたことや、好きな人に性的感情を持たないことを踏まえると、自分はノンセクシャルなのかもしれないと思い当たった。

そこからは、様々なことがつながった気がして、頭がくらくらした。自分が他者に対して性的感情を持ったことがないことに気付いた。好きだから触れたい、触れてほしいと思ったことがなかった。むしろ、接触を嫌悪していた傾向すらある。彼氏がほしいと断言できなかったのも、ここにつながるのではないか。誰かと恋愛感情をもって付き合うということは、世間一般の人々はそこに性的感情が伴っていることを想定する。私はそうではなかった。だから、恋人がほしいとは思わなかった。恋人がいることが羨ましかったんじゃない。性的感情を伴った普通の恋をできることが羨ましかった。ただそれだけのことだったのだ。

ただそれだけのことだったのに、ラブソングで、恋愛ドラマで、恋バナであふれているこの世界では、私は生きづらかった。苦しかった。

できることなら、ノンセクシャルの記事に共感しないような人間に生まれたかったとさえ思った。

私はふと、中学生と高校生の時の自身の恋愛について考えていた。今までに2回、告白をしたことがある。どの告白の時も、私は、「好きです」という恋愛感情の告白の後に、「付き合ってください」と付け加えた。好きです、だけでは相手が困ると思ったからだ。だが、いつも違和感があった。慣習だと思っていたから「付き合ってください」を付け足したが、自分は本当に相手と付き合いたかったのだろうか。相手と一緒に帰ったり、ご飯を食べたり、手をつないだり、という、恋人同士がすることをしたいと思っていたのだろうか。もしかしたら、振られてほっとしたのは、何のためかぴんと来ない「付き合う」という行為をせずに済むことからくるものだったのではないか。

それに気づいたとたん、自分は恋愛に向いていないのだというささやかだけれど決定的な絶望と、自分の心がこもっていない告白をした相手への罪悪感が沸き上がってきた。


ある日、バイトの同期に食事に誘われた。彼は要領が良く、私がバイトに入りたての頃、いろいろと教えてくれた人だった。大学は違ったが、講義の時間割を踏まえると、シフトがかぶることが多かったため、そういう日は駅まで一緒に歩いた。帰り際に控室で話し始めると、それをうまく終わらせて先に出てきづらかったのもあるし、少しは周りとコミュニケーションをとるのも必要なのかもしれないと思い、例の食事に誘われる日までは特に何も考えず駅まで歩いた。

電車に乗る私と乗らない彼がいつものように駅で別れようとしたときに食事に誘われた。私は一瞬で嫌だと思った。否定的な感情がからだ中を駆け巡ったのが分かった。特に根拠はなかったが何か嫌だった。いや、本当は嫌じゃなかったのかもしれない。とにかく私は、言葉にならない言葉と空気で、断った。こういう時にとっさにうまいことが言えない自分がいつも嫌だった。好きな人がいるとか、彼氏がいるとか、当分は忙しいとか、なにか言えればよかったのだが、それができない。

「とりあえず連絡先だけでも」と言われたので、連絡先を交換した。いつも通り「お疲れさま」と言い、駅へ入っていく。もう2度と一緒に駅まで歩きたくないと思った。そう思った自分に気付かないくらい、その時の自分はただただ驚いていた。

異性に食事に誘われるのは人生で初めてだった。異性と一緒にご飯を食べたのは、行事のクラスでの打ち上げくらいだ。とはいっても、同性と食事したことも数えるほどしかない。それに気づくと、悲しんだほうがいいのか気にしなくていいのかよくわからない気持ちになった。食事に誘うということがどういうことなのか、ネットで調べた。多少の好意を持たれているらしいということが分かった。彼は、私のことが好きなのだろうか。それとも、バイト仲間との親睦を深めたいと思っているのだろうか。何かが嫌だった。考えるのも嫌だった。本当は何も嫌ではなかったのかもしれない。彼に限らず、こういうことに頭を悩ませ心を乱すことがとても嫌だ。

告白されたわけではないし、もし彼が私に好意を持っていても私にその気がなければ恋愛関係は成立しないのだ。

こうやって恋は始まるのだと初めて知った。自分は人を食事に誘うという考えを今まで持っていなかったことに気付いた。好きになったら、少しラインして、目が合ったら喜んで、そのうち告白するものだと思っていた。今までの恋愛と大学生や大人の恋愛は違うのかもしれない。

夜寝る前、布団に入ってから、今日のことを思い出した。もし彼と付き合ったら、何をするのだろう。恋人ならできるがバイト仲間や友達ではできないことは何なのかを考えて、気持ち悪くなった。彼の手元に自分の連絡先が残ってしまうことを考え始めたところで、夜は思考がどんどん暗くなるのを思い出し、ひたすら夜の静寂に耳を傾けた。いつかお互いの一切を受け入れ合うことができる人に出会えたらいいと思った。


私は異常なのかもしれない。人とは違うところがたくさんある。今の性的指向はマイノリティであるし、恋愛感情が性的感情に結びつかない。私も、多くの人と同じようでいられる人生のほうが、幸せなのだろうか。

いやいや、私が多くの人と違うところがあっても、それでもいいと私を受け入れ、「そんなあなたがいい」と私を肯定してくれる人。そして私も、相手のすべてを受け入れ、肯定したいと思える人。そんな人が、どこかにいるのだろうか。そういう人と、人生を一緒に歩みたいのだ。たとえ「して一人前」と世間に思われているような結婚という形でなくても、恋愛感情や性的感情を伴わなくても、お互いの価値観を受け入れ合い、「一緒にいたい」とお互いに思える関係。そういう関係を望んでいる自分は、決して異常などではない。

苦手なことが多くて社会から取り残され否定されていると感じることが多い分、私は私を愛してやらねばと思ってきた。自分はいつだって自分の味方でいなければならない。わかっていても、難しかった。不器用だから。そんな不器用な自分を自分が愛し、その自分を愛してくれる人が、いるはずなのだ。そして、伝えるのだ。「あなたに出会えてよかった。ここまで生きてきてよかった。」と。



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