第二十話

 その時、「銀作さん!」と月乃が駆け寄って来た。

 たすき掛けをし、裾を帯に挟んでたくし上げた姿で、懸命に走ってやって来る。

 捲れた裾から、夜目にも光るような白い脚がちらちらと覗くのを見て、銀作はとっさに明後日の方を向いた。


「どこを見てるんですか!ちょっとこっち向いてください!」


 月乃は怒ったような声でそう言うと、銀作の頬を両手で包み、ぐいと自分の方を向かせた。冷たくやわらかい手のひらに触れられ、覚えず心臓が跳ねる。


「おっ……なんっ……⁉」

「頬を火傷しています。じっとして」


 暴れかけた銀作を鋭く一喝すると、月乃は意識を集中させるように目を閉じた。

 その気迫に呑まれ、わけがわからないまま銀作もまた口を閉じる。花のような、ほのかに甘い月乃の体臭が鼻先に漂ってきて、ほとんど息もできない。


「……あ」


 ほんの五つばかり数えた頃、ジワリと頬が熱くなり、火傷の痛みが消えるのを感じた。

 月乃が目を開いた。

 手を放し、銀作の頬の火傷が癒えたのを見て、泣き笑いの顔になる。


「お月さん……」

「……これも、『若返りの水』の力かしら。自分でも、なんだか怖いような気がするんだけど」


 ふと、思い出したことがある。おぼろ堂で仮眠をとって目覚めた後、それまで熱を持ってじくじくと痛んでいたはずの腕が、見違えるほど回復していたのを。傷の重さによっては完治に時間がかかるようだが、月乃はたしかに、生き物の傷を癒す力を手に入れていたのだ。

 月乃の肩が、微かに震えている。おのれが別の生き物に変わっていくような不安に怯えているのだと気づき、銀作は考える前に手を伸ばしかけた。


「おおーい、てめぇら!いちゃつくには観客が多すぎるんじゃねぇのか?」


 火噛が苛立った様子で野次を飛ばす。

 

 周りには村人たちが集まって来ていた。

 今しがた炎の化物を呑み込んだ巨大な狼を、畏敬を込めた目でこわごわと見つめている。


「山犬と『月』の娘……おお、まさか……」


 震えながらよたよたと前へ出てきたのは、この村の名主を務める老爺である。

 名主は恭しく火噛を見上げると、雷に打たれたようにその場につくばい、声をあげた。


「もしやあなた様は、御嶽蔵王権現みたけざおうごんげんにおわす、『おいぬ様』では⁉」

「……うん?」


 銀作、月乃だけでなく、当の火噛も首を傾げた。


 御岳蔵王権現とは、江戸の西方に位置する武蔵御嶽山むさしおんたけさんの神社である。ここでは、かつて道に迷った日本武尊やまとたけるのみことを導いたとされる白い狼・大口真神おおくちまがみが信仰され、親しみを込めて『おいぬ様』と呼ばれていた。

 御岳蔵王権現は別名を「月の御嶽みたけ」といい、おふだに描かれた『おいぬ様』の左目が、三日月型になっていることでも有名である。この札は、特に銀作の生まれた天保年間、信仰の拡大とともに広く伝わった。

 名主は、巨大な白い狼が、「お月」と呼ばれる娘と一緒にいるのを見て、これがかの有名な大口真神に違いないと確信したのである。


日本武尊やまとたけるのみことは大口真神に、『すべての魔物を退治せよ』と命ぜられたそうな……その言葉のとおり、おいぬ様が妖を呑み、我らをお守りくださったとは。ありがたや、ありがたや……」


 名主が両手をこすり合わせて火噛を伏し拝むと、周りの村人たちもそれに倣い、ありがたや、ありがたや……と口々に言い始めた。

 これには銀作も月乃も、あっけに取られて立ち尽くすしかない。

 

 が、火噛は違った。

 初めこそ、何を言っているのかと言わんばかりに、呆れた顔で村人たちを眺めていたが、拝まれている内に、だんだん体がむずむずしてきた。

 日頃、福寿郎狸や、それをありがたがる人間たちを白い目で見てきたが、実際自分が感謝される側になってみると、これはなかなか気分が良い。


 火噛は得意満面でふんぞり返ると、ひょいと後足で立ち上がった。


「やいやいやい!俺様の口は、ただただでっけぇばかりじゃねぇんだぜ?

 家内安全!

 悪鬼退散!

 火喰ひくいの真神まがみ火噛ホノガミ様たァ……あ、俺がァことォでぇぇぇい!」


 どこから出したか扇を打ち振り、立役たちやくよろしく桜吹雪を散らして大見得を切って見せる。

 ははーァ!と村人たちが声を揃えて叩頭した。

 ……その様を、もはや銀作も月乃も、黙って見守るほかないのであった。

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