第十八話


(何……今のは、一体何……?)


 早くなる呼吸を無理やり押さえつけながら、夜の中を走る。

 勘違いではない。自分の手から生じた何かが、お結の傷を治すのを確かに感じたのだ。

 普通の人間にできることではない。

 自分は一体、どうなってしまったのか……おのれが急に、何か知らない生き物になってしまったような気がして、震えが止まらなかった。

 

 考える余裕もなく、納屋の戸をこつこつと叩く。

 ややあって、顔を出した銀作が、驚いたように目を見開いた。


「なした?そんた慌てて……」

「銀作さん、私……っ」


 一瞬、月乃は銀作の胸に縋りつきそうになるのを、すんでのところで堪えた。

 誰かに掴まりたかったし、誰かに抱きしめて欲しかった。

 そうでなければ、自分という存在が、得体のしれない化物になって暴れ出しそうな恐怖に駆られていた。


(いけない。何を考えているの……)


 震える体をぎゅっと縮こまらせ、両手で口を覆って、肩で息をする。

 上手く息が吐けなくて苦しい。こんな夜更けにいきなり来て困惑させているだろうに、まともに説明することさえできない。


 不意に、あたたかい手のひらが両肩に置かれた。


「落ぢ着げ。大丈夫だ」

「うん……ん……」

「ゆっくり息さ吐いて……吐けば自然に吸える」

「ん……」


 ふー……っと、胸をぺたんこにするつもりで吐き切り、少しとめて、自然に胸が膨らむのに任せる。

 銀作は、肩においていた手を耳に移動させ、月乃の冷えた両耳を優しく包み込んだ。

 皮膚の薄い耳に触れられると、熱い血潮の巡りを直に感じる。側頭部が温まると、自然と緊張がほぐれて、月乃は眠るように目を閉じた。

 銀作は小さく唇を動かし、何か呪文のようなものをぶつぶつと唱えている。山中で怖気や寂しさに駆られた時、勇気を鼓舞してくれる、マタギの唱え言葉だ。同じ呪文を三度唱え終わる頃には、月乃の呼吸はすっかり落ち着いていた。


「……落ぢ着いだけ?」

「うん。ありがとう……」

 

 目を開けた時、思いのほか近くに銀作の顔があった。

 慌てて身を離し、言い訳の言葉を探す。


「あ……あの、急に来て、取り乱してごめんなさい。銀作さんに相談したいことがあって」

「相談?」

「実は……」


 切り出しかけた、その時だった。



「か……火事だー!みんな逃げろ!」


 不意に村人の声が響き渡り、ざわざわと村が騒がしくなってきた。

 銀作は即座に火縄銃と胴乱を手に取り、月乃の横をすり抜けて、表に飛び出した。 

 後を追って外に出た月乃は、目の前の異様な光景に息を呑んだ。


 赤い炎が地面を駆けていた。

 草や木が燃えているのではない。

 幾筋もの炎がまるで生き物のように、すさまじい速さで土の上を駆けぬけているのである。

 それらは家々を覆い、炎上させ、逃げ惑う人々に向かっても更に手を伸ばすように燃え広がる。


「あ、銀作さん……!」

「お月さんは、彦一さん達と一緒にいでくれ!」


 銀作は素早く動乱を腰につけると、火縄銃を手に、鉄砲玉のように駆け出して行った。

 その向かう先―――上空に、ひと際明るく燃え上がる、一つの火の玉があった。

 目を凝らして見ると、炎の中心に老婆の顔のようなものが見える。



「あっ……」


 不意に、ぐん!と後ろに引っぱられた。

 体が宙に浮き、気がついた時には、月乃は狼の背中に乗せられていた。


「火噛さん……⁉」

「よお、お月ちゃん!しっかり掴まっててくれよ」


 火噛は流星のように地を駆けながら、軽い調子で言う。

 振り落とされないよう白い毛皮にしがみつきながらも、月乃は必死で後ろを振り返った。村が、炎が、銀作が……どんどん遠く離れてゆく。


 やがて、村から離れた小高い丘までやってくると、火噛はもう安全だと判断したのか、月乃を下ろした。

 遠い空にぷかりと浮かんだ炎を睨み、ふん、と鼻を鳴らす。


「ありゃ、『うば』だな」

「うばがび……?」

「強欲婆ァの成れの果てさ。生きてる間に子どもをさらって売り飛ばしていた女はな、死んだ後も成仏できずに、炎になってこの世を彷徨うのさ。中には、生きてた頃の仕事が忘れられなくて、ああやって子どもを追いかけては捕まえ、あの世に連れてっちまう奴もいる」

「そんな……!」


 村人たちは悲鳴を上げながら、水辺の方へと逃げてゆく。その中には何人もの子どもたちがいる。

 姥が火は引きつった笑い声をあげながら、そのすべてを捕えようとするかのように、四方八方へ炎を広げている。炎はうねうねと蛇のように走り、畑に燃え移り、民家を炎上させた。


「でも、どうして急にこの村に……まさか、私が呼び寄せてしまったの?」


 恐れていたことが起こってしまったかと、月乃は身を震わせる。しかし、火噛は吠えるように笑って、首を横に振った。

 

「いやいや、そういうんじゃねぇよ。あの婆ァはもともと、春になるとよく出てきやがるのさ。雪がとけて、子どもが外で遊びまわる季節だからな。だが、お月ちゃんは見つからねぇに越したこたァない。ここでじっと大人しくしときゃ大丈夫だよ」

「でも、そういう訳にも……」


 彦一たちが危険な目に遭っているのに、一人だけ安全な場所で手をこまねいているわけにはいかない。それに、この正月に十になったばかりのお結もいるのだ。


 おろおろと視線を巡らせていた月乃の目に、その時、青い光が飛び込んできた。

 ただ一人、他の人々とは違って、姥が火の方へと近づいていく人影がある。

 銀作にちがいない。

 妖を屠る、不知火の弾丸を装填しているのだ。

 

「銀作さん……どうして撃たないの?」


 身の安全を考えれば、できるだけ遠くから狙撃した方が良いに決まっている。

 火噛は面倒くさそうに首を巡らせると、青い光を見て、目を細めた。


「火縄銃で狙える距離には限界があるんだよ。的から離れ過ぎれば、弾は届かず手前で落ちちまう。小僧は確実に当たる距離から姥が火を撃つつもりなんだろう」

「……随分詳しいのね?」

「たいしたこっちゃねぇよ。だが、うまくいくかは賭けだな。先に姥が火に見つかってみろ。一瞬で炎に包まれて、小僧はお陀仏だ」

「そんな……ねぇ、火噛さん、助けて。あなたなら、きっと姥が火を倒せるんでしょう?」


 月乃は白い毛に覆われた体にすがって懇願するが、火噛はあっさりと背を向け、ごろりと横になってしまう。


「いやアなこった。あんな生意気な小僧、どうなろうと知ったこっちゃねぇよ」


 取り付く島もない。

 月乃は今一度、村の方を振り返った。

 赤い炎は、見る見るうちに広がっていく。


「どうすればいいの……」

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