第十七話

「……炎の化物?」


 彦一からその話を聞いた時、銀作は眉をひそめた。


「そうなんだよ。隣村に嫁いだ妹がね、昨日の晩に妙なものを見たって言うんだよ」


 昨晩、彦一の妹は末の子がぐずっているのに気づいて、夜中に目を覚ましたらしい。乳をやり、おしめも変えたが泣き止まない。少し夜風に当たれば眠るだろうと思い、忍び足で表へ出た。


 眠い目をしょぼつかせながら、腕の中の赤子をゆらゆらと揺らしていた時、ふと、彼女は遠くに灯りが灯っているのに気づいた。

 おや、先ほどは月明りしかないと思ったのに……誰かが消し忘れた燈明だろうか。

目をこすってもう一度よく見てみた時、妹はその火の異様さに気づいて震えあがった。


 燈明ではない。

 一尺ほどの大きさの炎が、ぷかりと宙に浮いているのだ。

 炎は何かを探すように宙を漂い、数軒離れた家の前で止まると、戸の隙間を通って、すう…っと中へ入って行った。……それが、あまりにも生き物の動きに似ていたので、妹は悲鳴をこらえて自分の家へ戻り、朝までぶるぶると震えていた。


 夜が明け、朝日が昇った。

 村の中が妙に騒がしいのに気づいて外へ出てみると、昨日、あの謎の炎が入って行った家から、女の泣き声が聞こえる。この春五つになったばかりの子供が急死したのだ言う。

 妹は今度こそ、芯から震えあがった。

 昨晩見たことを話すべきだと思ったが、恐ろしくて、その場ではとても口に出せなかった。

 それで、生まれ故郷にいる兄の所へ、内密で相談に来たのだという。


「俺はまァ、妹が寝ぼけて夢でも見たんじゃねぇかと踏んでるんだが……ま、用心するに越したこたぁない。銀作さん、もしよければ、数日山に行かねえで、里に留まっててくれねぇかな。男手があればあるほど、女房子供も安心するからさ」


 銀作はうなずく。日頃、世話になっている彦一の頼みだ。勿論否やは無い。

 彦一が畑に出ると、入れ替わりに、月乃が遠慮がちに納屋に入って来た。話を聞いていたようだ。


「銀作さん、ひょっとして、あの時の……」


 皆まで言わずともわかる。ほんの数日前に二人が山で出会った、炎を操る狼のことを言っているのだろう。

 銀作はしばし腕組みをして考えに耽っていたが、やがて首を横に振った。


「それはねぇと思う」

「でも……」

「あいづはあんたの匂いを知ってる。もし、あんたを狙って人里さ下りだなら、まっすぐこの家さ来るだろ。わざわざ回り道しで、見ず知らずの人間おどかす理由がねぇ」


 ほんの短い時間対峙しただけだったが、銀作は火噛の本質をある程度見定めることができたと思っている。あれは、自分の力に絶対の自信を持っている。面倒な謀を巡らさねばならないほど弱くはなく、正面からぶつかることを好むはずである。


「……とはいえ、お月さんも用心してくれ。今は無闇に出歩がね方が良い」


 月乃はほんの少し目を伏せたが、素直に頷いた。

 銀作に言われるまでもなく、月乃は最近、他出を控えている。自分の存在が、野生動物や妖を惹きつけると知って以来、周りに危害が及ぶのを恐れて、家にこもりがちになっていた。

 銀作は眉を寄せた。せっかく長きにわたるしがらみから解かれて、外へ出ることができたというのに、これではもとの生活に逆戻りだ。


 ふと思いついて町へ出かけた。そして、買ってきたものを、厨にいた月乃にずいと差し出した。


「ん」

「えっ」

「髪は霊力が集まる場所だんて、隠せば多少、『匂い』さ抑えられる。……気休め程度かもしんねけど」


 それは、浜縮緬の御高祖頭巾だった。色は、若い娘に似合う紅掛色だ。

 夕餉の味噌汁をかき混ぜていた月乃は、しばしあっけに取られていたが、やがて玉杓子を置き、丁寧に手を拭いてから、それを受け取った。


「あの……お代は」

「いらね」

「でもこれ、とってもいい布ですよ?」

「古着だ。そんた、大したもんでね」

「ありがとう……」


 頭巾を胸に抱きしめて、心から礼を言う。つい、無粋にも値段のことを気にしてしまったが、ものが何であるか以上に、銀作の心遣いが嬉しかった。

 銀作は居心地が悪そうにぼりぼりと頬をかきながら明後日の方向を見ていたが、すぐ傍でお町がにやにやしながら見守っていたことに急に気づいたらしく、そそくさと納屋に退散して行った。




――――


「ああー……気持ちが良いね。極楽、極楽……」


 お町が、ほう、とため息を吐く。

 外から戻って来た彦一は、囲炉裏端で、月乃がお町の肩を揉んでいるのを見て、ぎょっとした顔をした。


「なんだい、お前。お客人にそんなことさせて……」

「いえ、私から言ったんです。お世話になっているから、これくらいのことは」

「もういいよ、お月さん。随分肩が軽くなったよ……ありがとう」


 お町は両肩をぐるりと、晴れ晴れとした笑顔を見せた。本心から嬉しそうなので、月乃もまた自然と微笑みを返す。


「春とはいえ、夜はまだ冷えますからね。あとで、血のめぐりを良くするお薬湯を入れますよ。彦一さんも按摩しましょうか?腰が痛むとおっしゃってたしょう?」

「えっ!いや、俺は、あの……いや、参ったな……」

「なにあんた赤くなってんのよ。若い子相手に、嫌らしい」


 お町が夫の尻をきつくつねったと同時に、お結がやってきた。右手で左手を包むように握り、べそをかいている。


「ねぇ、お月ちゃん。ケガしちゃった。見て……」


 見ると、左手の人差し指に、ぷくっと血の玉が膨らんでいる。端切れでも縫っていて、うっかり針で突いてしまったのだろう。

 横から覗き込んだお町は、呆れた顔で盛大にため息をついた。


「なんだい、それっぽっちでめそめそして!唾でもつけときゃ治るよ、そんなもん!」

「だって痛いんだもの。ね、お月ちゃん、お薬つけて」

「そうねぇ……」


 月乃は清潔な手拭いを取り出して、軽く傷口を押さえてやった。小さな刺し傷だが、なかなか深く刺したようで、一度拭ってもすぐまたぷくりと血の玉ができる。


「針に錆や汚れはあった?」

「ううん。きれいな針だったよ」

「なら、大丈夫だと思うけど……念のため、しばらく、こうして押さえておきましょうか」


 小さな傷でも、そこから悪いものが体に入ると、思いのほか治りが遅くなったり、ひどくただれたりする。

 傷口付近の血を少し絞り出した方が良いので、月乃はお結の指に手拭いを巻き、その上から軽く押さえるように両手で包み込んだ。

 その時だ。


(え……)


 不意に、月乃は自分の手のひらが、じわりと熱くなるのを感じた。

 その熱がお結の手にゆっくりと移動して、指先の方へと集まっていく。


「……あれ?痛くない」


 お結がパッと手を放す。

 手指の刺し傷が消え、なにごともなかったかのように滑らかになっている。


「わ、治っちゃった!」


 お結は頓狂な声をあげて、不思議そうに左手を顔の上にかざして見る。

 普通、刺し傷の後には、ぽっちりと赤い点のような跡が残るものだが、それすらも見えない。

 彦一やお町は特に驚くでもなく、さもありなんというようにうなずいている。


「ほら、ご覧。そんな小さな傷、ほっといたってすぐに治るだろう」

「お前、そんなことで大騒ぎしてちゃあ、将来苦労するぞ」

「違うもん!さっきまで、本当に痛かったんだもの。きっと、お月ちゃんが撫でてくれたから、早く治ったのよ。ね、お月ちゃん……お月ちゃん?」


 気がつくと月乃は立ち上がっていた。

 手足から血の気が引き、心臓の鼓動が速くなっている。

 きっと、自分は今、蒼白な顔をしているのだろう。お結が心配そうにのぞき込んでくる。彦一夫妻も、何があったのかとこちらをうかがっているようだ。


「お月ちゃん、どうしたの?」

「……なんでもないの。あの、私……ちょっと……」


 その先を十分に口にできないまま、逃げるように家の外へ飛び出した。

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