第十四話
「あーあ、ばっか臭ぇ、ばっか臭ぇ」
火噛は不貞腐れて山をのし歩いていた。
久しぶりに心惹かれる乙女に出会ったと思ったら、既に男がいた。それも、この世で一番大っ嫌いな、火縄銃をぶら下げた猟師だ。どこがいいのか皆目わからんが、どことなくむずがゆい雰囲気で言葉を交わす二人の様子に、火噛はすっかり白けてその場を後にしてきたのだった。
「つまんねぇことで時間を潰しちまったぜ。品川にでも繰り出して、憂さを晴らすかな……」
数か月前、因縁をつけてきた客をとっちめて以来、足が遠のいていたが、そろそろほとぼりも冷めた頃だろう。
人間の姿になろうとした時、ふと、柔らかな声が耳に蘇った。
―――どちらかというと、元の狼の姿の方が好きかしら。
「……ああ、くそっ」
体がむずむずする。
意味もなく胴震いをすると、その場にごろんと身を横たえて、ため息をついた。
心地の良い、優しい声だった。願わくは、もっとそばで聞いていたかった。
商売女たちのくらくらするような強い香と、くっきりとした紅の色は、それはそれで心躍るものだが、今はそれらに上書きされたくない。
「久しぶりだな。こんな気分は……」
のんびりと流れゆく雲を見つめながら、ぽつりと一人ごちる。
ずっと昔には、こんな風に、切なくなるほど愛しく思う瞬間が沢山あったような気がする。
けれど、今は違う。過去のあれこれの思いでは、今では、墨で塗りつぶしても足りないくらい、忌々しいものになってしまった。
―――思い出なんていらねぇよ。
今さえあれば、それでいいんだ。
寝よう。眠ってしまおう。
そう思って目を閉じた時、不意に異変が起こった。
晴れ渡っていた空が、にかわに黒々とかき曇った。
ピカっと空の一点が光ったかと思うと、黒雲が割れ、まばゆい光とともに虹色の雲が生じる。
ぽん ぽんぽこ ぽんぽんぽん
ぽん ぽんぽこ ぽん……
柔らかな
その上には、白い法衣に身を包んだ、一匹の大狸が鎮座していた。
長く艶やかな白いひげに、どんと張り出した太鼓腹。
後光を背負い、数百にも及ぶ小さな豆狸たちを従えている。
豆狸たちは、ある者は笛を吹き、ある者は腹鼓を叩き、ある者は歌ったり踊ったりしながらブンブン飛び回っている。
たいそうめでたくにぎやかな様相である。
火噛は片目でちらりとそちらを見やると、すぐに目を閉じてしまった。
「火噛よ。火噛よぉ……」
大狸が朗々とした声で呼ばわる。
近隣の山々にも轟くような大声だ。驚いた鳥たちが鳴き騒ぎながら飛び立ってゆく。
火噛は舌打ちをして、いかにも大儀そうに上体を起こした。
「なんの用だよ、ノタ坊主!」
「他人行儀な……以前のように親しく『親父』と呼べばよい」
「うるせい!勝手に死んだ上、勝手に神様なんかになっちまった奴ぁ、俺の親父じゃねぇやい!」
そう。
この大狸、もとは三百年前に火噛に変化の術を授けた、化け狸のノタ坊主である。
読者の皆様の中には、はてと首を傾げた方もいらっしゃることであろう。このノタ坊主、物語の冒頭にて、馬に蹴られて死んだはず。……しかし、この話には続きがあった。
ある日、ノタ坊主は狸の姿で、てくてくと民家の屋根の上を歩いていた。ぽかぽかとした陽光と、うまそうな食べ物の匂いに惹かれて、人里に散歩に出たのである。
ある茶屋の屋根の上を通りかかった時、縁台で団子を食べていた男の子が、ぽとりとその一つを落とした。あっと声を上げ、追いかけた先には、運悪く馬の尻。馬は背後に人が立つと、蹴り上げずにはいられぬ生き物である。硬い馬蹄が、すさまじい勢いで幼子の額に迫った。
その時である。突如、ひらりと屋根から飛び降りた狸が、馬と彼との間に入った。
勿論、これが ノタ坊主である。
深く考えてのことではない。子供が団子を落っことしたので、しめしめ横取りしてやろうと、がめつく飛びついただけのことである。
謀らずも、これが幼子の命を救った。ノタ坊主は彼の楯となり、蹄に頭をかち割られて、あえなく頓死した。
「たぬきさんが!たぬきさんが、死んじゃったぁ!」
ノタ坊主の胸中など何も知らない男の子。この見た目ばかりは忠義な狸を憐み、その亡骸を抱き抱えて、わんわんと泣いた。
だがこの少年、ただの心優しい子供ではなかった。この土地の有力者の御曹司だったのである。少年の親は、話を聞いてたいそう感動し、この狸を手厚く葬り、のみならずこれを祀る社まで立ててしまった。このできごとは町中に矢のように広まり、噂が噂を呼び、一度その社へ参れば、家内安全、夫婦円満、万病平癒のボケ封じなどと尾ひれがつく。
そうして、わっしょいわっしょいと祭り上げられている内に、一介の化け狸に過ぎなかったノタ坊主は、いつしか本当の神様に生まれ変わってしまったのである。
今では「
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