第十二話

 月乃は、小川のほとりに、ぽつんと座っていた。

 激しい怒りを吐き出すとともに、その身も少ししぼんでしまったのかもしれない。しょんぼりとうなだれるうなじが、いつもよりいっそう細く、消えてしまいそうなほど儚げに見える。

 銀作は少し離れた茂みから顔を覗かせ、その背中を見つめていた。

 声をかけるべきなのはわかるが、何と言えばいいのかわからない。


「……おい、どうすんだよ」


 毛むくじゃらの前脚に脇腹を小突かれる。銀作は舌打ちし、隣にいる狼を睨みつけた。


「どうするったって、どうにもでぎねべさ。お月さんが落ち着くまで、そっどしどくしがあんめぇ」

「だぁって、あのまんま放っとけねぇだろうが。見ろよ、あれ。どんどん集まって来てんぞ」


 火噛に顎でしゃくられるまでもなく、銀作もとうに気づいている。

 月乃の周りには、ぞくぞくと野生動物たちが集まって来ていた。

 鳥や兎、イタチに狸。いずれも、座り込む月乃に身を寄せ、その顔をのぞき込んだり、丸まって目を閉じたりしている。寄り添い、慰めているようでもあり、甘えているようでもある。

 

「今はまだ可愛いもんだが、その内、蟲やら鼠やらもぞろぞろ集まってくんぞ。それだけじゃねぇ。熊や狼……あやかしの類が寄って来たって不思議はねぇ。あのが発してるのは、そういう類いの匂いなんだ」

「……今んとこ、近くに妖物ようぶつの気配はねぇ。お前ぐれぇだ」


 火噛は苛立ったような、呆れたような顔をして、銀作を睨む。


「お前なァ。そういうことがわかる人間なら、なんでそれ相応の身の守り方を教えてやんねんだよ。はっきり言って、あの娘ほど妖怪おれらにとって『美味うまそう』な人間は、ここ数百年見てねぇぞ、俺ァ」


 銀作は返す言葉もなく、もぐもぐと口を蠢かせた。

 銀作にも、月乃が今、一体どういう『もの』になっているのか、はっきりとはわかっていないのだ。



―――

 

 月乃はぼんやりと水面を見つめていた。

 先ほどと同じように動物たちが集まって来ているのには気づいていたが、今はどうでもいい。

 勢いにまかせて、胸に詰まった思いを吐き出した途端、その奥に、思いのほか黒い本音が淀んでいたことに気づいて呆然としていた。

 吐き出した言葉は銀作へ、そして火噛へ向けたもの―――しかし、実のところ、その裏で考えていたのは庄九郎のことだった。


 五十年、そばで守り続けてくれた人。

 もうよいのだと、逃げてもいいのだと伝えても、最後まで誠実に仕え続けてくれた人。

 ……しかし、月乃の胸には、純粋な感謝や遠慮とは違う、屈折した思いが、いつしか芽生えるようになっていた。


―――これだけ言ってるのに、どうして、逃げてくれないの?

   あなたが苦しむ所なんて、もう見たくないのに……


 庄九郎がいたから、ここまで生きて来られた。それは事実だ。

 しかし、何度忠告しても耳を貸さず、頑固に献身ぶりを発揮し続ける庄九郎を見ることに、いつしか月乃自身が疲れを覚えるようになっていたのも事実だった。

 傷つき続けるくらいなら、いっそ逃げてほしいのに。

 そんな風に、庄九郎を厭わしく思う気持ちさえ、いつしか抱くようになっていた。


「……私って、本当に嫌な奴」 


 あれほど尽くしてくれた人に、どうしてこのような残酷な思いが抱けるのだろう。しかし、いけないことだと思えば思うほど、言葉にできない本音は膨れ上がった。喉につかえて苦しかった。

 

 動物たちが耳をそばだて、ぱっと散り散りに逃げ出した。

 振り返ると、ばつの悪そうな顔をした銀作が佇んでいた。猟師の持つ火薬と鉄の匂いを、獣たちは敏感にかぎ取ったようだ。


「……そいづだけ、起ぎねな」


 月乃の隣に腰を下ろし、銀作は月乃の膝を覗き込む。そこでは、先ほどの子ウサギだけが、安心しきったように眠りこけているのだ。

 月乃は試しに、子ウサギの耳をふにふにと撫でてみる。全く起きる気配がない。


「……私って、そんなににおいますか?」


 ぽつりと呟くようにして尋ねる。

 火噛は言っていた。月乃からは「惹かれる匂い」がするのだと。これほどたくさんの野生動物が集まって来てしまったのも、ひょっとするとその「匂い」のせいかもしれない。

 正直あまり良い気はしない。発情期に獣の雄雌が互いに惹きつけあう、そういう「におい」を連想した。自分の発するにおいは自分ではわかりづらいから余計厄介である。


 銀作は答えにくそうに渋面を作った。


「……べつにくせぇわけじゃねぇ」

「はぁ」

「においってが、『気配』だべな。お月さんがらは、川のせせらぎとか、若葉の芽吹きとか、日なたのぬぐさとか……そういうものに似た気配がする。生命を癒す、自然の懐みでぇな」

「いのちを癒す……」

「そういう気配の近くにいると、心地ががら、特に弱ぇ生き物は寄って来ぢまうんだべな。はっきりとはわがんねが、お月さんは何年も『若返りの水』を飲んできたんで、体に生命の気が満ちているのがもしんね」


 もやもやと胸にわだかまっていた不可解なものが、すとんと胸に落ちたような気がした。

 もう、自分も半分くらい、人間ではないものになりかけているのかもしれない。

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