第十一話
咆哮とともに、とびかかって来た。
銀作はパッと身を屈めると、火噛の胸の毛をむずと掴み、巴投げの要領で後方へぶん投げる。火噛はぐるんと宙がえりをすると、太い立ち木を後足で蹴り、間髪入れずとびかかる。投石のごとく突進する狼を、銀作は両腕を開いて待ち受ける。
ドン!と体と体がぶつかった。
銀作は両腕を輪のようにして、火噛の両顎を押さえつけていた。ぐるる、と唸る狼の口から、ぼとぼとと泡立つ涎が落ちる。徐々に押し負けて草鞋が滑り、地面にずるりと二本の溝を刻む。
「銀作さん!もうやめて!」
月乃は金切り声で叫んだ。
こんな格闘が、いつまでも続くはずがない。いずれ体力が尽きて、餌食になるのは銀作の方だ。
逃げるべきか。自分がこの場を離れれば、銀作が戦う意味はなくなる。だが、その場合、火噛の怒りは収まらなくなるだろう。
覚悟を決めて一歩前に出た。
「火噛さん、もうやめてください!私が、あなたと一緒に……」
「言うな!」
吠えたのは銀作の方だった。
その声に初めて切羽詰まったものを感じ、月乃は思わず身をすくませる。
額に浮いた大粒の汗を散らしながら、銀作は力いっぱい火噛を抑えつけ、腹の底から叫ぶ。
「何も言うんでねぇ!」
「でも……」
「あんたはもう、二度と自分の人生を他人に売り渡しちゃなんねぇ!親父さん
ガウガウと苛立った唸り声をあげ、火噛が頭を打ち振った。振り飛ばされた銀作の体が、背中からドッと木にぶつかる。声もなく地面に崩れ落ちた猟師に、すかさず狼が圧し掛かった。
大口が開き、とがった牙が迫る。
月乃は悲鳴を上げた。
「げえっ⁉」
突如、弾かれたように火噛が飛びずさった。
口中を怪我したのか、下あごからたらたらと血がしたたっている。
銀作は何食わぬ顔でむくりと起き上がった。右手には血に濡れた小刀が握られている。帯に隠し持っていた、護身用の
「なんだよ……『男なら身一つで来い』っつたのは、お前だろ?」
火噛はべろべろと口の周りを舐めながら、呆れたように苦い笑いを見せる。銀作は澄ました顔で小刀を振るい、残った血を
「おらも身一づで行ぐとは言っでねぇ」
ふっと足から力が抜けて、月乃はその場に座り込んだ。
安堵と緊張がないまぜになり、呼吸が落ち着かず、うまく息ができない。
ベッ!と血の混じった唾を吐き、火噛がにやりと愉快そうに嗤った。
「いっちょ前に屁理屈を捏ねやがる!そんなら俺ももう容赦はしねぇぞ!」
「望むとごろだ」
再び向かい合う二人を見て、何かが月乃の胸中に膨れ上がった。
やめて、でもない。
許して、でもない。
口から飛び出したのは、そんな弱弱しい懇願ではない。
とてつもない怒りだった。
「いい…っかげんにしてください‼」
わん、と響き渡った怒声は、他の全ての音をかき消した。
今しも殺し合いを始めようとしていた一人と一匹は、唖然とした顔で月乃を見つめている。
月乃は肩で息をしていた。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
まるで癇癪を起した赤子のように、自分を止められない。
泣き出しそうになるのをこらえながら、心に浮かんだ言葉をそのままの形で吐き出す。
「なんなんですか、あなたたち!なんでちょっと楽しそうなんですか⁉」
「お月さん……」
「何が、俺を置いて逃げろよ!心配するなよ!一人だけかっこつけて、いい御身分ですこと!あなた一人を危険の中に残して、私が何も思わないだなんて、本気で思ってるんですか⁉」
「お、お月ちゃん……?」
「言葉の無い獣同士なら、力に訴えるのもわかります!でも、あなたたちは言葉が通じているじゃないですか!話し合えば解決するかもしれないことに、どうしてわざわざ拳を出してくるの⁉」
「落ち着いでけれ。息があがってるぞ」
銀作が伸ばしてきた手を振り払う。駄々っ子のように足を踏み鳴らした。
「私はもう、見たくない!犠牲も、暴力も、もううんざり!あなたたち、喧嘩がしたいなら、どっか遠くで勝手にやってください!私はもう、一切何にも関知しませんから‼」
ばっと身をひるがえし、月乃は木立の奥に走って行ってしまった。……勿論、着物だし、獣道でもあるので、大した速さではないが、どこか追いかけるのは憚られるような拒絶感がある。
闘志に水を差された男たちは、途方に暮れて気まずく目を見交わした。
ピーヨロロ……と、空の高い所を、トンビが飛んでいく。
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