第十話
その時だった。
不意に火噛が手を放し、後ろに飛びのいた。
ヒュッと尖った石が風を切って飛び、今しがた第三の目があったところを通って地面を穿つ。
思わず身をすくませた月乃の眼前に、火縄銃を抱えた男が躍り出た。
マタギ犬の毛皮が大きく翻る。
「銀作さん……!」
「怪我ァねが!?」
銀作は月乃に呼び掛けながらも、目は油断なく火噛を睨み据えている。手にした火縄銃には既に弾が込められ、銃口は標的に向けられている。
火縄には赤い火が点火されていた。妖異を撃つ
火噛の髪の毛が逆立った。
「ああ……てめえか。忌々しいにおいの正体は」
一瞬で総身に白い毛が生えそろい、胴震いを一つした後には狼の姿に戻っていた。
白い毛皮をまとった体が、一回り、二回り、大きく膨れ上がる。
体からめろめろと熱気が立ち上り、陽炎となって周りの景色を歪ませる。付近の枝葉から瞬時に水気が蒸発し、萎れた葉っぱがはらはらと散り落ちた。
「随分前から、山ン中にきな臭ぇにおいが入り込んだと思ってたんだ。鉄のにおいに、火薬のにおい……俺の
どん、と銃口が火を噴いた。
火噛は軽々とそれをよけ、大きな口を開いて吠えるように言う。
「戦国の乱世が閉じて二百年も経つのに、まァァだ火縄銃なんかぶら下げてる奴がいるとはなァ!目障りだ!とっとと俺の縄張りから失せろ、狩人が!」
狼は三つの眼をカッと見開いた。
瞬間、ボッ!と、消えたはずの火縄に赤い炎が踊る。
銀作は一瞬瞠目したが、冷静に銃口を天に向けた。
銃身に残っていた火薬に火が移り、ドン!と空砲が空に向かって放たれる。火縄銃は単発式のため、一度撃った後の銃身には弾が残っていない。もし銃身が破裂したら大惨事になっていただろうが、運よくそれは免れた。
火噛は面白くなさそうに、フンと鼻を鳴らした。
「上手く難を逃れたつもりか?お腰の胴乱にゃあ、予備の火薬がたっぷり詰まってるんだろう?炎は俺の
「そんな……っ」
「死にたくなけりゃあ、里に帰んな、ボウズ。お月ちゃんは俺が幸せにしてやるから安心しな」
「お月さん」と銀作が小声で囁いた。ほとんと唇を動かさずに話すので、月乃はそっと銀作に身を寄せて、耳をそばだてた。
「おらが時さ稼ぐ。あんたはまっすぐ坂さ下って、里へ下りでけれ」
「でも……」
「すぐに追いつく。心配するな」
またそれだ。
月乃は唇を噛んだ。あの時は胸を掴まれた言葉だけれど、今回は素直に呑み込めない。ある程度ともに時を過ごしたからわかる。銀作は、自分よりも他人のために無茶をする人間だ。
火噛は苛立ったように、その場で足踏みする。フン、フン、と不機嫌そうに鼻を鳴らすたびに、口から炎が吹き漏れた。
「なァにをこそこそ話してんだよ、うっとおしい!お月ちゃんから離れろ、小僧!」
銀作は火噛に視線を戻すと、片方の口端を吊り上げて笑った。銀作が笑うのを見たのは初めてだったが、挑発的でなんとも嫌な笑いである。
「獣のくせしで、やだらど くっちゃべる……」
銀作は火縄銃を地面に置くと、どういう訳か、第二の武器である
腰の胴乱も外し、笠と毛皮も外して投げ捨ててしまう。
そうして身軽になると、力士のように腰を割って四股を踏んだ。
「炎だ何だとまどるっこしぇ。その、
「ああ?」
「男だば、しのごの言わねで、身一づで ぶづがっで
「なんだとぉぉ……!」
非常に安い挑発だが、驚いたことに火噛はあっさりこれに乗った。早口の秋田弁だが、恐らく雰囲気で言葉の意味は伝わったのだろう。
怒り心頭に発した様子で、ゴウ!と吠える。
「生意気な小僧だ!人間なんざ美味いもんじゃねぇが、もう一瞬だってその顔見てたくねぇや。望み通り、この口で頭から食ってやるから覚悟しやがれ!」
「やれるもんだば、やっでみれ!」
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