第九話
「どうも、やたらに惹かれる匂いがすると思って来てみれば……こんな山奥に天女がにるたァな!」
声の主は上機嫌に、ふさふさの白いしっぽを振っている。
正面に二つ、額に一つ、合計三つの眼。
濡れた鼻づらと、開いた口にずらりと並んだ鋭い歯。
全身が白い毛に覆われているが、目や口の周りには、隈取のように赤い毛が生えている。笑うように開いた口からは、獣臭い息とともに、滑らかな人語が次々と飛び出してくる。
「お嬢ちゃん、どこから来たの?この辺の子?」
月乃はその場に座り込んだまま、まじまじと目の前の相手を見つめた。
狼が出るか、と口にしたら、本当に狼が出てしまった……それも、並外れた体躯や人語を操るところからして、ただの狼ではあるまい。
長年、
背筋を伸ばし、何も言わずにじっと様子をうかがう。狼はぱちぱちと三つの目玉を瞬くと、小首をかしげた。
「あ、ひょっとして、この姿が怖いかい?ちょっと待っておくれよ……」
一歩後ずさりをしたかと思うと、どろん!とその身から白い煙が噴き出した。
現れたのは、七尺近い大柄の美丈夫である。
彫の深い整った顔立ちに、一対の琥珀の瞳。
片身代わりの派手な着流しを、粋に細めに着付けており、色っぽい流し目を寄こして、器用に片目をつむって見せる。
「どうだい?この姿の方が、とっつきやすいかな?」
「そうねぇ……」
月乃はまじまじと、目の前の男を見つめる。
確かに、口の大きさが小さくなった分、今にも食われるのではないかという恐怖は薄らいだ。だが、きりりとつりあがった切れ長の目には凄味があり、全身に漂う異様な気配は隠しきれていない。
また人間だからと言って危なくないということも決してなく、むしろ人間だからこそ厄介であることも多いのだ。ならば正体が明らかになっている方が、まだマシというものであろう。
月乃は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……どちらかというと、もとの狼の姿の方が好きかしら」
「え、そうかい?なァんだよ、嬢ちゃん。いい趣味してるじゃねえか!」
ぎょろっ、と男の額に第三の目が開いたかと思うと、再び煙が噴き出し、一瞬で狼の姿に戻っていた。どうやら本当に喜んでいるらしく、ふさふさの尾をぶんぶり振りながらその場に伏せ、上目遣いに月乃を見上げる。
「ねぇねぇ、お膝に頭乗っけてもいい?」
「それは、もうちょっと仲良くなってからが良いわね」
「奥ゆかしいとこも俺好みだ。じゃ、仲良くしようぜ。俺ね、
随分人懐っこい狼である。月乃はわずかに気が緩むのを感じた。
「月乃よ」
「そ。じゃ、お月ちゃんだね!きれいな名前だ。この辺に住んでるのかい?」
「ええ、今はね」
「今は?」
「じきに
「そりゃ大したもんだ。だが、その可愛いあんよじゃ、あっちこっち行くのも大変だろう?」
ずい、と狼が身を乗り出してきた。琥珀色の両眼と、額に光る浅黄色の一眼が、一斉に月乃を見下ろす。
「どうだい?俺と一緒にこの山で暮らさないかい?」
随分と嘗めた口ぶりだ。
眼前に濡れた鼻先が迫っても、大きな口の中にとがった牙がのぞいても、なけなしの自尊心が胸を冷やし、恐怖を引っ込めてくれる。
月乃は目を細め、つんとそっぽを向いた。
「残念だけど、私、そんな風に口説いてもらえるような娘じゃないのよ。本当の年は六十過ぎのおばあちゃんだもの」
何を馬鹿なと笑われるか、鼻白むかと予想したが、火噛はそのどちらもしなかった。前足を人間のように動かして頬杖をつき、余裕たっぷりに笑って見せる。
「なぁに、俺から見りゃあ、可愛い娘っ子さ。かれこれ三○○年は生きてっからな」
「その割に随分若く見えるのね」
「妖ン中じゃ、実際若い方さ」
「……私のこと、嘘つきだと思わないの?」
「ただの人間じゃないのは気づいてたさ。最初っからな」
長い指に両手を包みこまれ、ハッとして視線を戻す。
凛々しい眉をした大柄な男が、目の前に膝をついて、月乃の手を握っていた。
人間の姿だが、額には第三の目が開かれている。
男が頬の辺りに鼻先を寄せてきたので、身をよじって体を離した。
「やめて」
「涙の匂いがするね。泣いてたんだろう?ついさっきまで」
「そんなこと……」
「気を悪くしたんなら謝るよ。ごめん。俺はただ、君を放っておけないって言いたかっただけなんだ」
眉をしかめて睨みつけるが、火噛は到底、そんなものでは動じなかった。月乃の指に、おのが指を絡ませ、握りこんでくる。
「辛いことがいっぱいあったんだね」
「…………」
「それも、他の人間には言えないようなことが。……だが、俺ならきっと、君のことをわかってあげられる」
カッと胸が熱くなった。
何がわかるというのか、と怒りのままに撥ねつけたかったが、心が揺れれば揺れるほど、生じる隙間に火噛は巧みに滑り込んでくる。
大きな手に頬を撫でられた。三つの目玉に正面から見つめられ、月乃は動くことができなくなった。
「お月ちゃん……」
艶を含んだ声が、すぐ間近に迫っていた。
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