第六話

 彦一の家へ来て、早くも三月みつきが経とうとしていた。

 お町が言っていた通り、銀作はほとんどの日々を山にこもって過ごし、たまに獲物を持って帰って来るのをくり返していた。自身はそれほど大柄というわけでもないのに、何食わぬ顔で、熊やら猪やらをずるずると引きずってくるのだから恐れ入る。


 銀作は家の裏でそれを解体し、毛皮をなめし、内臓を干し、売っては金に変えているようだった。かなりの収入を得ているはずだが、当人は贅沢な暮らしをしている様子は微塵もない。いつも洗いざらしの麻の着物を着て、年季の入った猟具を使っている。どうやら収入の大半は両替商を介して故郷に送金しているらしい。


 獲った獣の肉は ももんじ屋(獣肉を商う店)に卸し、一部は世話になっている彦一一家や、付近の家々に配ったりもする。

 月乃も何度か相伴に預かった。鹿肉や猪肉は「薬食い」と称して家族で口にしたこともあったが、熊肉は初めてだ。歯ごたえがあるので呑み込むまで骨が折れたが、下処理の仕方が良いのか、覚悟したような臭みはほとんどなかった。


 万能薬の誉れ高い、熊のも見せてもらった。これは熊の胆嚢を乾燥させたもので、同じ重さの金と取引される、非常に高価なものだ。


うちの村おらほじゃ、骨もすり潰して酒と練り、打身の薬さ作っでだな。他にも、サヨは熱さましさなるし、ヒダリは滋養強壮の薬、肝臓は結核の薬さなる」


 銀作は、乾燥させた臓器を納屋に並べ、一つ一つを指さしながら解説をしてくれた。

 熊の胆は漢方の原料になるので、薬屋で生まれた月乃はもちろん知っていたが、マタギはその他にも、独特な製薬の知識を持っているようだ。


「……この、細長い枝のようなものは何ですか?」


 並べ置かれた乾燥臓器の内の一つを指して尋ねると、銀作は急に口をつぐんでしまった。気になってしつこく問いただすと、どうやら、雄熊の陰茎であるらしい。性病の薬になるという。

 月乃はちょっと頬を膨らませた。


「子どもじゃないんですから、いちいち気を遣わないでください」

「……ン」 

「私だって薬屋の生まれですから、それなりの知識はあります」

「…………」

「そうしょっちゅう扱うものではありませんが、漢方でも三鞭さんべんといって、海狗オットセイや鹿や犬の……」

「お月さん」

「もう少し値段を押さえたければ、羊の……」

「勘弁してくれ」


 そんな風に、以前よりは打ち解けて言葉を交わすようになってきたが、先にも述べた通り、銀作は多くの場合一人で山へ行ってしまうので、月乃は月乃で、自分のするべきことを見つけて過ごす必要があった。

 お町を手伝って掃除や洗濯をする傍ら、料理も習った。自分一人で生きていく力を身につけるために、覚えられることは何でも覚えようと思ったのだ。

 銀作が町へ出る時には、できるだけついて行くようにした。人波の中を委縮せずに歩けるようになりたかったし、どんな薬が売られているのかも知りたかった。いつの間にか、銀作の後ろを歩いても、置いて行かれることはなくなっていた。




――――


 そして春。新緑の季節である。


「ちょっと、よもぎを摘んで参ります」


 ある日、月乃は厨にいたお町にそう声をかけた。蓬もまた艾葉がいようと呼ばれる生薬であり、非常に広い効能を持つ身近な薬草である。

 洗い物をしていたお町は、前掛けで手を拭きながら、ちょっと心配そうに眉を垂らした。


「一人で大丈夫かい?」

「暗くなる前に帰って来ますし、そんなに遠くへは行きませんから」

「私も行きたい!」


 お結がはしゃいだ様子で駆け寄ってきて、月乃の手を取った。近頃ではすっかり月乃に気を許し、お月ちゃん、お月ちゃんと、姉妹のように慕ってくる。


「あんたはだめよ。昨日、家の手伝いを忘れて遊びに出かけたのを忘れたのかい?」

「えーっ」

「たくさん摘んでくるから、帰ってきたら蓬のお団子を作りましょう。とってもいい香りがして美味しいのよ」


 取り成すように言ってお結の肩を撫でる。お結はにっこり笑い、甘えるように月乃に抱きついた。


「お月ちゃんも良い匂い。ね、帰ってきたら、お団子もいいけど、またお話をして。昔々のお姫様のお話や、異国とつくにの不思議なお話、お月ちゃん、いっぱい知っているものね」 

「ええ」

「まァまァ、この子ったら赤ん坊みたいに……お月さん、気をつけていってらっしゃいね」


 お町は呆れながらも、どこか嬉しそうに苦笑して見せた。



―――


 うららかな春の日差しの中、のんびりと流れゆく川のほとりで、月乃はせっせと蓬を摘んだ。土手には一面に土筆やたんぽぽが咲き、ひらひらと舞う蝶の羽も愛らしい。

 頬を撫でる風が心地よく、気分が良くなって、月乃は小さく歌を口ずさんだ。もともと歌は大好きだ。仕事をしながら小声で歌うのが習い性になっている。


大君おほきみつかうる

 野を越え 山越え 都行き

 年行き返り 月重ね

 見ぬ日さまねみ 恋ふる空」


 万葉の歌人・大伴家持おおとものやかもちの長歌を元にしているらしい。帝の命により京へのぼった人が、無事に帰ってきたことを寿ことほぐ歌だ。誰が節をつけたのかは定かでないが、月乃の生家では、春の蓬摘みのたびに、よく歌ったものだった。


「安くしあらねば 時鳥ホトトギス

 来つる五月さつき菖蒲草あやめぐさ

 蓬かづきて遊べども

 雪解ゆきげあふりて 増しにけり」

 

 あなたに会えないまま、重ねる月日。寂しさを紛らわせるために、時鳥の鳴く五月、菖蒲や蓬を髪に飾り、酒宴を催して楽しもうとしたけれど、恋しい気持ちは春の雪解け水のごとく、胸に溢れるばかりです。……大方、そういう意味の歌である。


 ―――ねえ、恋しいって、お母様のこと?


 いつか、ずっと昔、蓬を摘む父にそっと身を寄せて尋ねたことがある。月乃の母は、月乃が幼い頃に、流行り病で亡くなっていた。

 父は一瞬、ハッとしたように手を止め、やがて寂しそうにそっと微笑んだ。


 ―――そうだね。いまもずっと、ずっと恋しいよ。


 目頭が熱くなって、月乃はそっと目元を押さえた。

 香りというものは、遠い昔日の影をも、すぐ手元にまで引き寄せる。春の蓬の香りに包まれていたら、あの日の父の声も、着物越しのぬくもりも、間近にあるように感じられて胸が詰まった。


「時鳥、来つる五月の菖蒲草……」


 時鳥は昼夜問わず高らかに鳴く鳥。そこから、昼の世界と夜の世界……すなわち、この世とあの世をつなぐ鳥だと考えられている。


「私の声も、時鳥に託せば、みんなに届くのかしら……」


 父に、母に、……庄九郎に、今伝えるべきこととはなんだろうか。

 月乃は今一つ蓬の若葉を摘み取ると、そっとその葉に鼻先を寄せた。

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