第五話

「ダイカワニ ダイシンジン 

 ソウカワニワ ソウシンジン

 ソウジノケサニナル 

 ワガミニサンド アブランケンソワカ……」


 一人の男が、山中の川の中に立っている。

 小声でぶつぶつと念仏のようなものを唱えながら、曲げわっぱで汲んだ水を両肩にうちかけている。

 着物を脱ぎ、身に付けているものは褌一枚。

 真冬である。

 雪山のただ中である。

 氷のような山水を受けて、男の体は赤く腫れあがっている。

 それでも男は水垢離をやめようとはしない。

 男の体温が高いせいか、肌を叩く水はにわかに白い霧と変じて宙を漂ってゆく。


「ダイカワニ ダイシンジン 

 ソウカワニワ ソウシンジン

 ソウジノケサニナル 

 ワガミニサンド アブランケンソワカ……」


 通りがかった旅人は、異様な光景にびくっと肩を跳ねさせ、関わりを避けるように、そそくさとその場を後にした。


 フーッと白い息を吐きだして、銀作は濡れた頭を打ち振った。

 故郷・羽州の凍てつく寒さに慣れてしまったせいだろうか。ここ武蔵の国では、真冬の山水も心持ちぬるく感じる。

 頭を占める雑念が飛んでいかない。諦めて川から上がり、乾いた手拭いで体をぬぐった。


 目を閉じてごしごしと顔をぬぐうと、瞼の裏に一つの顔がぼんやりと浮かぶ。

 月乃の顔だ。不安そうにこちらを見つめている。

 なぜ、ついてきてもいいなどと言ってしまったのだろう。一緒にいたところで、何をしてやれるわけでもないのに―――考えてもせんないことを、またぐるぐると考えてしまう。


 あのまま放っておくのが最善でなかったのは確かだ。一緒に町を歩いてみてはっきりした。

 銀作の目から見た月乃は、とにかく「危なっかしい」の一言に尽きる。真っ白な肌とやわらかそうな手指は、畑や厨の仕事から無縁であることを物語っているし、品のあるたたずまいや仕草からも、浮世離れした様子が伝わってくる。

 少しでも危険を減らすため、金目のものは全て屋敷に残し、木綿の地味な着物をまとって出てきた。持ち物は、薬研や乳棒、乳鉢といった製薬の道具と、わずかな銭のみ。それでも立ち居振る舞いなどから良家の出であることはわかってしまう。

 そういう娘を世間がどう扱うかを知らないから、スリに近づかれても、助平男に体を押し付けられても、意図がわからずきょとんとしていたりする。子ウサギが肉食獣の縄張りに放たれたようなもので、危なくて目が離せない。


 どう扱っていいかわからず、ひとまず彦一の家に置いてきてしまったが、離れていても何かと気にかけてしまう。そのせいで狩りにも身が入らず、朝から初歩的なへまばかりして獲物に逃げられている。


……女子おなごのごどさ考えて集中切らすなど、言語道断。


 これではいかんと狩りを諦め、気を引き締めようと水垢離をしたが、思うような効果は得られなかった。情けないにも程がある。

 

 冷えた体に山衣裳みじか(丈の短い上衣)を羽織り、おこしておいた焚火の前に胡坐をかいて、瞑想した。

 ぐちゃぐちゃした頭の中を空っぽにする。すると自然に、瞼の中に浮かんでくる光景があった。




―――


「おおい、セヅゥ。でぇじょぶがぁ。寒ぐはねが。」


 里の一角。古いながらもどっしりとした立派な造りの建物の前で、父・金五郎が悲壮感漂う声を上げている。

 五歳の銀作は、熊掌のごとく大きな父の手の、人差し指一本を小さな右手に握り、ズズッと洟をすすり上げた。左手に持ったものが汚れないように、袖を使ってごしごしと洟を拭う。


 この時代、月経中の女は「月経小屋」と呼ばれる小屋に隔離されることが習わしとなっていた。心身ともに疲弊するこの時期の女性の体を休ませる目的もあったが、血の穢れを家族から遠ざけるという目的もあった。

 マタギもまた「穢れ」を忌避する者たちである。山神が嫉妬深い女神であるという伝承から、特に月役の女に接触することはご法度とされていた。

 この習慣に一石を投じたのが、銀作の祖母であった。腕のいい取り上げばば(産婆)であった彼女は、月役中や産前・産後の女たちが存分に心身を休めることができるようにと、使われていなかった空き家を改修し、独自の療養院を里の中に開いた。

 銀作の母もまた、この療養院で銀作を産み、その後も月に一度はここで七日程過ごしていた。が、夫である金五郎はこれをひどく嫌がった。


「おおい、セヅゥ。でぇじょぶがぁ。寒ぐはねが。褞袍どてらさ持っでぎたぞぉお」


 七日の間も、日に一度は銀作を連れて療養院を訪れ、なんやかやと声をかける。

 稀に見る愛妻家だった父は、ただの七日であろうと、そしてどれほど安全が確保されていようとも、妻を家から出すことに納得がいかないようだった。

 特に初めの頃は相当ごねたようだが、周囲と、とうの妻から再三説き伏せられて、泣く泣く承知した経緯がある。マタギは集団で狩りを行うから、一人だけわがままを言う訳にはいかないのだ。祟りがなんだ、と無理を押して慣習を破れば、万一狩猟隊レッチュウが事故に遭った場合、責めを受けるのは父以上に母であったろう。


 療養院の窓から顔を覗かせる母は、いつもやれやれというように苦笑いをしていた。


「うるせな、金五郎!毎度毎度そんたどごで騒ぐんでね、この馬鹿ほじなし!」


 ぐわりと板戸が開いたかと思うと、大柄な老婆が飛び出してきた。銀作の祖母であり、この療養院の院長、ナギその人である。

 ナギは手にした竹ぼうきを振りかぶると、自分より更に一周り大きな息子を、頭からぶったたいた。竹ぼうきは金五郎の石頭で粉々になった。


「おみでなでがぇ男、戸口で大声出すだば、他の娘っこだつ怖がってへぇれねぐなんでねが!それに、お前はどんだけ恋しいかしんねげど、こごさいる間、女だづは亭主やしゅうとの世話もしねで、うんっと羽さ伸ばせんだ!セヅだって、たまにゃ旦那の顔が見だぐね時もあんだ。気づけぇ!」

っちゃあ!そりゃあねぁべ。なんだってそんた泣ぎたくなるごど言うだよ」


 金五郎は、こぶの膨らみつつある頭頂部を撫でながら、本当に涙を浮かべている。痛むのは頭ではなく、心の傷の方である。


「ああ、せめてこれ……この餅だけでもセツに渡してやっでけれよぉ。他のみんなと一緒にってよぉ。

 そだ。おう、銀作。おも母っちゃに渡しでもんがあんだべ?」

「うん」


 銀作は、こくんと頷き、手の中に大事に持っていたものを、母に差し出した。

 目に眩しいほどの、あかるい黄色をしたフクジュソウ。

 春になると真っ先に雪の中から現れる花だった。

 大事に大事に茎を握ってきたせいか、ちょっと元気をなくして萎れているようだが。


「あーれぇ、銀坊。花持っできだんけぇ?およりよっぽど気が利くでねの」


 息子には手厳しいナギも、孫相手には自然と猫撫で声になる。

 母もまた優しく微笑み、細い手を伸べて、息子の手からフクジュソウを受けとった。


「ありがとう、銀」

「うん……」


 銀作は、まだ何か言おうとして口を開いたが、何も言えずに再び閉ざした。

 フクジュソウを見つけた場所に、母を連れて行きたいと思っていた。これから温かくなれば、もっともっとたくさん咲くかもしれない。山に咲くそのままの姿を、見せてあげたいと思っていた。

 しかし、言えなかった。生まれつき体が弱く、病がちであった母と、銀作は一緒に出掛けた記憶がほとんどない。月役が終わっても、寒く、足元の悪い山道を連れて歩くのは無理だろう。わかっていたから、言えなかった。

 母は銀作の頭に伸ばしかけた手を止めて、代わりに、取り出した手拭いで、洟を拭ってくれた。あの日の自分の胸の内は、母にだけは伝わっていたと思う。



―――


 目を開くと、そこには、故郷ではない山の、雪景色が広がっている。

 にもかかわらず、銀作の瞳には、あの日の母の寂しげな微笑みが、今なお鮮明に見えていた。そしてその姿に、時が止まったような屋敷の中で、孤独と恐怖に耐えていた月乃の面影が重なる。

 

(……おらは、母っちゃにしでやれねがったこどさ、お月さんにしでやりでって、思っでらのが。)


 銀作はしばらく、流れゆく川面を見つめていたが、やがて立ち上がり、火の始末をして山を下りた。




―――


 彦一の家へ戻ると、月乃が洗い物を持って母屋から出てきた。家の中ではちょうど夕餉が終わった所だったようだ。

 銀作の姿に気づいて、足を止める。

 寒風の中でもきりりとたすきを締めている。白くたおやかな手はそのままだが、屋敷を出たばかりの頃のような怯えた様子はない。彼女なりに腹をくくったのか、少し見ない内になにやら逞しくなったように見える。


 道中にあれこれ考えていたはずの言葉は、たちまちどこかへ行ってしまった。

 銀作はうろうろと視線を泳がせる。


「……おかえりなさい」


 優しい声が胸を包んだ。

 月乃は微笑んでいた。そっと手を差し伸べてくるような、あたたかい微笑みだった。

 銀作は菅笠を引き下げ、顔を隠してもごもごと返事をした。


「……たでぇま」


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