第四話
マタギが旅をする時、問題となることの一つが「宿」である。
仏の教えは殺生を禁忌としている。獣を狩ることで生計を立てている猟師は穢れに触れる存在であり、一夜の宿を借りることも嫌がられることが多かった。
そこでマタギは各地に「マタギ宿」と呼ばれる常宿を持ち、旅をする際には決まってそこへ宿泊した。
銀作がこの日向かったのは、高尾山の麓にある小さな村の、彦一という百姓の家だった。過去に、銀作の祖父がこの辺りを旅していた時、畑を荒らす猪を狩ったことで縁ができた。以来、江戸周辺を旅する際には、いつも拠点にさせてもらっている。
二人が訪れた時、彦一は家の前で斧を振るって薪を割っていた。銀作が笠を取って丁寧に礼をしたので、月乃もそれに倣ってお辞儀をした。
「彦一さん。また世話んなります」
「ああ、銀作さん!よう来なさったね。なんもねぇが、ゆっくりしてってくれよ」
彦一は汗まみれの額をぬぐいながら、明るい笑顔をこちらに向けた。口端と目じりにくっきりと笑い皺を刻んだ、人のよさそうな壮年の男である。
彦一はぐるりと視線を巡らせると、月乃の姿を認め、あんぐりと口を開いた。
銀作は咳ばらいをする。
「……わげあって、しばらく同行するごどさなりました。飯代は払うがら、一緒に置いちゃもらえねぇですか」
「月乃です。よろしくお願い致します」
「は……あ。ああ、それは、それは。おおい、お町!お
彦一は曖昧に笑いながら、手のひらでぐっと顔を拭うと、気を取り直して家の中に向かって声をかけた。
はあい、と気持ちの良い
「あらまー、こりゃ!お人形さんみたいなお嬢さんだこと!銀作さんったら、不愛想な顔して、いつのまにこんな別嬪つかまえたんだか。まぁったく隅に置けないんだからぁ!」
いち早く我に返った女房は、華やいだ声をあげて月乃の手を取り、もう一方の手でバシバシと銀作の肩を叩いた。気の置けない間柄のようだが、銀作は石でも呑んだような顔をして棒立ちになっている。
「いや、別にそういうんじゃ……」
「心配しなくっても、ちゃあんとお世話しますよぉ。お結、お部屋整えてさし上げて」
「うん」
お結は先に母屋の方へ向かう。
月乃はお町に手を引かれてとまどった。すがるように銀作を見るが、銀作は何やら彦一と話しながら、家の裏手へと歩いて行ってしまう。
「あの……銀作さんは?」
「銀作さんはね、いつも納屋の方に泊まってくれてんのよ。多分、すぐにまたお山の狩り小屋に行っちゃうだろうけどね」
「えっ」
「いいの、いいの。その方が本人も都合がいいんだってさ。自分で火薬を混ぜたり、鉄砲玉を作ったりするっていうから、マタギの人はすごいよねぇ。でも、寝床もお
お町はどうやら世話好きな性分のようだ。自分自身も若返ったかのように華やいだ声をあげている。
―――
古いながらもこざっぱりとした四畳半に通されると、月乃はしばしぽつねんと座り込んでしまった。長い距離を歩いたのも、人波を泳いだのも久しぶりだった。ひどく疲れていたが、初めて来た家に一人きりでいるせいか、気を抜くこともままならない。
冷えた手指をこすり合わせて温めていたら、先ほどのお結という娘が、ひょこりと顔を覗かせた。
「ええと……入ってもいい?」
「どうぞ」
ほっとして、思わず微笑んだ。初対面でも、年若い娘が一緒にいてくれると、少しは気持ちが和む。
お結は盆で運んできた白湯と饅頭を月乃の前に置くと、すぐに去ろうとはせず、もじもじとその場に正座していた。そして、不意にまなじりを決して月乃を見つめた。
「あの、お姉さん」
「私、月乃っていうの。お月と呼んでね、お結ちゃん」
「あ、うん。お月さん。あの……お月さんは銀作さんと『いい仲』なの?」
あら、と月乃は口に手を当てる。お結の顔は真剣だった。頬を真っ赤に染めて、おさえきれない好奇心を宿した目で、じっととこちらを見つめてくるのが可愛らしい。
ひょっとして、銀作に憧れでもあるのだろうか……からかう気はないのに、つい、ふふ、と笑みをこぼしてしまう。
「そんなに気になる?」
「だって……銀作さんが女の人を連れてくるなんて、初めてだったから」
「ちがうわ」
あっさりと首を横に振る。
すると、お結は安心するどころか、落胆したように肩を落とした。
「なあんだ」
「あら、期待に沿えなかった?」
「だって、あんな堅物な銀作さんが恋に落ちるなんて、想像できないもの。どんなすごい物語があったのかって気になってたのに」
どうやら月乃の読みは外れたようだ。確かに、自分事でなくとも、色恋沙汰には目がない年頃であろう。いや、自分事ではないからこそ、はしゃいでしまう気持ちもわかる。月乃も、いつか……ずっと昔、お千夏とそんな話で盛り上がった覚えがある。
苦笑しながら肩を落とす。見た目ばかりは同じ年頃の男女が連れだって歩いていれば、そういった関係に思われても仕方がないのかもしれない。しかし、こうした誤解も、銀作にとってはわずらわしいものには違いないだろう。なんせ、実年齢は五十ほども離れているのだ。
「食べる?」
饅頭を二つに割り、半分を差し出す。お結は頷き、膝を崩して食べ始めた。用事は済んだはずだが、まだしばらく居座っておしゃべりに興じようという構えである。もともとは人懐っこい性分なのだろう。
月乃は、白湯の湯のみを手に取ると、そのほのかな熱で指先をあたためながら、ひとくち口に含んだ。ぬくもった舌で言葉を選びながら口を開く。
「あのね、私、色々あって家を出ることになったの。実家が薬屋だったから、薬売りとして細々とでもやっていけたらと思って。でも、女の身ひとつだと、何かと不安なことが多いでしょう?
それで、うちの店を贔屓にしてくれていた銀作さんを頼ることにしたの。旅をなさっているそうだから、あちこち連れて行ってもらえれば、何か手立てが見つかるんじゃないかと思って」
実際には、銀作とは昨日会ったばかりだが、嘘も方便。会って間もない男について家を飛び出したと知れれば、またあらぬ疑いをかけられかねない。
お結は「ふうん……」とあいづちを打ちながらも、釈然としない様子で饅頭を頬張っている。月乃は苦笑しつつも、構わずに続けた。
「でも、やっぱり早くお暇しなくちゃね。身内でもない女がついて行くなんて、迷惑なことには違いないもの。困らせてしまっているようだし、申し訳ないわ……」
町中での銀作の様子を思い返して俯く。手を振り払われた時のことを思い出すと、自然と背中が丸くなってしまう。
お結は、今度こそはなはだ疑問だと言うように、盛大に眉を寄せた。
「そうかなァ。銀作さんの場合、単に女の人に慣れてないだけじゃないの?小っちゃい頃におっ母さんを亡くして、それからずっと男所帯だったらしいもの」
月乃は目を瞬く。初めて聞く話だった。
「……そうなの?」
「うん。……あ、これは本人じゃなくって、お父っつぁんからの又聞きだけどね。銀作さん無口だけど、男同士だと割合よくしゃべるらしいもの。いつもおっかない顔してるけど、本当は滅多に怒らないし、礼儀正しいし、猟に出ない日は野良仕事も手伝ってくれるし……優しい人なんだってお父っつぁんは言ってたよ」
優しい人……それは、よくわかる。屋敷を出る前に、銀作が言っていた言葉を思い出す。
自分にとっては普通のことでも、月乃にとってはそうでないことがあるかもしれない―――自分以外の者の視点に立って考える。そんなこと自体、思いやりが深い人間でなければできないことなのだ。
落ち着かない心をなだめるように、胸に手を置いてみる。
銀作の素振りが冷たく見えてしまうのは、きっと月乃自身が引け目を感じているせいだ。
銀作はまだ若い。本当は、月乃をどう扱っていいかわからなくて、戸惑っているだけなのかもしれない。
(しっかりしなくちゃ………あの人よりも、私の方がずっと年寄りなんだから。)
「ありがとう、お結ちゃん」
気づきを与えてくれたことに礼を言う。お結は不思議そうな顔をしていたが、月乃が笑顔を見せると、つられるようにして微笑んだ。
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