第二話

 突き抜けるような空の中に、真昼の白い月が浮かんでいる。

 キンと冷えた空気の中、青空に向けてふうっと白い息を吹きながら、月乃はそっと顔の上に右手をかざした。

 白い手指と爪の間に、まだ落ち切らない土が残っている。

 障子を全て開け放してはいても、屋敷の中には、まだ湿った土と血の匂いが充満していた。


 この屋敷の中で、月乃は六十年以上もの長い年月を生きた。しかし、その肌はふっくらとして皺ひとつなく、十七歳の乙女の姿をしている。

 すべては『叢雲むらくも』と名乗る、あやかしから始まった。叢雲はこの月乃の生家である薬屋・おぼろ堂に住みついていた年経た大蛇で、七人もの人間を食らい、力を蓄えていた。月乃の亡き祖父・甚左衛門は叢雲と契約を交わし、家を栄えさせる代わりに月乃が十七になったらくれてやるとまで約していた。その呪いとも呼べる宿命から逃れるために、月乃は、奉公人の庄九郎が見つけてきた『若返りの水』の力を使い、十七にならないように若さを保ってきたのである。そして昨夜、不思議な力を持つマタギ・銀作の手によって、遂に叢雲は討ち果たされ、月乃は自由の身となった。


 叢雲が死んで間もなく、庄九郎もまた息を引き取った。長年、心臓の病を抱えていながら、無理を続けたのが祟ったのであろう。更には、屋敷の床下から、叢雲に喰われた七人の遺骨まで出てきた。

 銀作は月乃に代わって町名主の屋敷に出かけ、事の次第を説明してくれた。町名主の美濃屋・与兵衛は話の分かる人物で、今日の内に庄九郎を含めた八人、そして『叢雲』を手厚く弔うよう手配すると約束してくれた。

 準備が整うまで、庄九郎の遺体は別室に安置し、他の遺骨は壺に納めておくことになった。

 銀作が土を掘り返し、月乃がひとつひとつの骨を拾って、丁重に壺に納めた。

 

 一通りの仕事を終えた後、銀作は汚れた手と顔を井戸の水で清めた。そして、「ちょっとさっと寝る」と言うなり、空室にごろりと横になり、スンと落ちるように寝入ってしまった。

 屋内とはいえ、師走の寒い朝のことである。月乃はその部屋の障子を締めると、たっぷりと綿の入った掻い巻きを運んで来て、銀作の上にかけた。そしてまた、うんうん言いながら火鉢を移してきて火を入れた。徐々にぬくもってゆく空気の中で、そっと銀作の顔を覗き込む。


(……険しい顔)


 眠る銀作の眉間には、深い皺が一本刻まれている。心なしか息も乱れているようだ。もしかすると、怪我がもとで発熱しているのかもしれない。


(やっぱり、無理をしていたのね……)


 いいや、違う。無理をさせてしまったのだ。

 こんなにも無理をさせてしまったのは月乃のせいだ。

 そっと額に手を当てると、やはり少し熱を持っていた。冷たい月乃の手が心地よいのか、ふっと銀作の面から力が抜けた。こわばりの溶けたその顔は、思いのほかあどけなく見える。


(……助けてくれて、ありがとう)


 少しでもその安らぎが続くように、月乃はしばしの間、銀作の額に手を当て続けた。




――――


 銀作が目を覚ましたら、何か温かい物でも腹に入れさせてやりたい。

 厨を覗くと、昨日の晩の味噌汁が残っていた。

 戸棚には香の物。

 米は、その日一日食べる分だけを、毎朝庄九郎が炊いてくれていたから、おひつは空である。


「これじゃ足りないわよね……」


 頬に手を当てながら、一人ごちる。  

 実のところ、月乃は料理をしたことがほとんどない。「台所仕事なんて、お嬢さんにさせられません」と言って、庄九郎がやらせてくれなかったのである。

 とはいえ、この五十年、暇に飽かせて料理書は色々と読んだから、飯の炊き方自体は知っている。「なんとかなるわ」とおっかなびっくり火をおこし、米を炊いた。初めて炊いた米はふやふやで、そのくせ芯が残っていた。


 膳を持って部屋に戻ると、銀作は既に目を覚ましていた。腕に巻いた晒し木綿を半分外し、怪訝そうな顔で傷の状態を見ている。


「おはようございます」


 声をかけると、こちらを向き、黙って会釈をする。そのまますぐに晒しを巻きなおしてしまったので、月乃からは、傷の様子がよく見えなかった。


「こんなものしかないんですけど……」


 言いながら、温め直した味噌汁と、てんこ盛りのふやふや飯が載った膳を出す。銀作は軽く会釈をすると、慇懃に両手を合わせ、箸を取った。

 銀作はしばし無言でふやふや飯を頬張っていた。時折、お香こを口に放り込み、ぽりぽりと良い音をさせて噛む。

 美味いとも不味いとも言わない。

 顔にも出さない。


(……お米、大丈夫かしら)


 気になってつい、じぃっと見つめてしまう。銀作は月乃の視線に気づくと、少し たじろいだ様子で箸を止めた。そして、じっくりと飯を咀嚼して呑み込んだ後、熱い汁をぐっと飲み、


「……美味んめです」


 ほお、と熱い息と共に、ぼそりと言った。

 結構なことである。とはいえ、その味噌汁は庄九郎が作ったものなのだが。

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