第一話
元治元年、年の暮れ。
品川のとある遊郭で、回廊を足音高くのし歩く、一人の侍がいる。
酒毒のまわった赤黒い顔は、ひどくむくんで膨れ上がり、血走った眼は憤然と前方を睨んでいる。貧相な体躯とは不釣り合いに豪奢な拵えの大小は、左の腰にぶら下げたままだ。
「お武家さま、どうぞお待ちくださいまし!」
慌てた様子の若い衆が、追いすがって袖を引く。侍は忌々し気にその手を振り払った。
「そちらが胡蝶を出さぬからではないか!」
「先ほど申し上げた通り、胡蝶姉さんは、今、別の旦那についておりまして……」
「もう三日、居続けの客ではないか!儂は水揚げ以来の贔屓だぞ。どけ!どかんか!」
侍は若い衆を足蹴にすると、めあての座敷の唐紙を、搔き破らんばかりの勢いで開いた。
「おおい!胡蝶はここか!」
途端、火の玉のような眼に、正面から睨みつけられた。
う、とみぞおちを殴られたような衝撃を受け、侍はその場に立ち尽くす。
座敷の奥、めあての胡蝶を侍らせていたのは、実に面妖な男であった。
異人のごとき目鼻立ち。
役者のごとき赤い隈取。
毛髪は高い位置に結い上げているが、どういうわけかその側頭は短く刈り込まれている。
立ち上がれば七尺はありそうな堂々たる体躯に、金銀の糸で豪奢な刺繍を施した派手な着流し。
しかし、特異なのは、やはりその目だ。
琥珀色をしたその両眼は、
「……無粋な客もいたもんだ。せっかく気分よく呑んでたってのによ」
低く、かすれた艶のある声で、男が呟いた。
薄い唇が動くたび、その口の端に異様に長い犬歯がのぞく。
この男はなんだ。
妖の類ではないのか。
窮鼠のごとくぶるぶると震えながら、侍はあえぎ、刀の柄に手をかけた。
「き……貴様、何者じゃ⁉」
やっとの思いで声を張り上げる。
男はくっきりとした眉をしかめ、朱塗りの大杯でぐいと酒を煽った。
「そっちから乗り込んどいて、何者もクソもねぇだろうよ。俺の名が聞きたきゃ、まずそっちから名を言いな」
「う……うるさい、うるさい!胡蝶から離れんか!このデクの坊!」
「話にならねぇや……おい、あのトンチキ、ほんとにお前の旦那の一人かい?」
男は胡蝶の肩を引き寄せると、耳元に口をつけるようにして囁いた。女は少し申し訳なさそうに眉を寄せて苦笑すると、真っ赤な紅をのせた唇で、男の耳に囁き返す。
「許してやってよ、ひーさん。あんたが三日もあたしを放してくれないもんだから、とうとう堪忍袋の緒が切れちまったんだよ……」
「んなこといったって、お前が俺と離れたくないって、駄々捏ねるんだからしょうがねぇだろうよ」
「いやだ、嘘ばっかり……」
目の前で甘ったるい言葉を交わす二人を見て、遂に侍は我を失った。
抜刀し、怪鳥のごとき奇声をあげて斬りかかる。
袈裟掛けに切り下ろすと、男の胸から鮮血が迸った。
仁王のごとき巨体が、ゆらりと傾いで仰向けに倒れる。
胡蝶は両手で口を覆い、禿たちは悲鳴を上げた。
「わっ」
べしゃり、と顔に血が飛んだ。目に入ったそれを袖で拭いながら、侍は引きつった笑い声を上げる。初めて人を斬ったことに、動転し、また昂揚してもいた。
「ど……どうじゃ、無礼討ちにしてやったわ。この儂に逆らうから、こんなことに……」
瞬間、がしり、と鉄のような掌に抜き身の刃を掴まれた。
「……まァったく、つまんなくなったよな。侍も。刀も」
ようやく晴れた視界のただ中に、煌々と光る火の玉が二つ、ゆらりと現れる。
「ひいっ⁉」
「こんなナマクラじゃ、孫の手にもなりやしねぇ」
ボキン、と折られた刀身の先に、炎の
悲鳴を上げて後ずさる侍を前に、死んだはずの男が、ぬうっと立ち上がった。
その手に握られた刀身は、まとわりつく炎に真っ赤に焼かれ、飴のように蕩けている。男はそれを無造作にねじり、ぽいと脇に放り捨ててしまった。
心なしか、先ほどよりも、一回り、二回り、体が大きくなっているようだ。
胸の傷には、むりむりと肉が盛り上がり、ぞわりぞわりと白い体毛が皮膚を覆っていく。
めりめりと音をたてて額が割れ、硝子のような丸い目玉が、ぷかりと姿を現した。
侍は、峰より下しかなくなってしまった刀を取り落とし、その場に失禁した。
目の前で、ひとりの男が狼の化物に姿を変えるのを、赤子のように口を開けて見つめていた。
「この俺を殺したきゃ、鋼から鍛え直してこい。……と言いたいとこだがな。まず、なによりも、だ」
「ひ……おっ……おたすけ……おたすけ……っ!」
「女子供のいるとこで物騒なモン振り回してんじゃねぇよ!この
ゴウ!と一声吠えるなり、狼の化物は侍の襟首をぐいと口にくわえ、窓から飛び出していってしまった。
情けない悲鳴が夜空のかなたへ遠ざかっていくのを、残された女たちは呆けたように見送っていた。
―――
「ああ!ったく、忌々しいったらありゃしねぇ」
例の
うっかりして、獣の姿をあらわにしてしまったから、また贔屓の郭を変えねばならない。
人の世へやってきて三百年余り。
火噛はそうやって、あちらこちらの妓楼を渡り歩き、好みの女を見つけては、呑んで遊んで暇を潰し続けている。
びゅう、と吹きつけた海風に、自慢の白い毛皮が煽られる。
腹中の炎とこの毛皮のお陰で凍えることは無いが、瓦屋根に直についている
足元の郭の二階から、どっと楽しげな笑い声が上がった。
色っぽい芸妓の奏でる三味の音も、かまびすしい女たちの笑い声も、今はすべてが遠いものに思えて、火噛はその場にごろりと身を横たえた。
「正直、郭遊びも飽きてきたぜ……あーぁあ!どっかに面白いことでも転がってねぇかなァ!」
ため息交じりにぼやく頭上には、黄色い満月が浮かんでいる。
今にも落ちてきそうなほど、丸々と膨らんだそれを呑み込まんとするかのように、火噛は大きく口を開いてあくびをした。
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