第十七話

 決意がにわかに揺らぎだしたのは、五十路を少し超えた頃のことだった。

 膝が痛む。疲れが取れぬ。急速に体力が落ち、走りもせぬのに動悸や息切れがすることが増えた。医者にかかると、心の臓が弱っていると言われた。


「まァ、人間五十年というからね。無理はしないことだ」


 医者は眠たげな眼をしてのんきな診断を下した。

 「ヤブめ」と心の中で毒づく。

 無理をするなと言われたところで、休むわけにはいかぬ。月乃が頼れるのは、今やおのれ一人しかいないのだから。

 自分自身で薬を調合し、呑み下し、月乃の前ではいつもと変わらず見えるよう振る舞った。年に一度の水くみも、もちろん変わらず務めた。


 転機が訪れたのは三年前―――その年の夏は、殊の外暑かった。

 いつものように訪れた隠岐の島の港で、庄九郎は不意にめまいを起こしてうずくまった。


「旦那、大丈夫ですかい?どこへ行くのか知らないが、この暑さだ。無理しない方がいいですよ」


 庄九郎を乗せてきた船頭は、気づかわし気にそう声をかけてきた。

 庄九郎は無言で首を横に振った。

 夜までに泉にたどり着かねばならないのだ。大丈夫……これまで何度も通って来た道だ。目をつむっても歩けるくらい、山道には慣れている。少しくらい調子が悪くても問題ない。


 しかし、三歩も歩まない内に、庄九郎は再び膝をついた。

 おかしい。船を降りたのに、地面が揺れているようだ……。

 息が苦しい。心の臓が、奇妙な拍を打っている。薬を……と背中の荷を掴んだ手が、震えてどうにもならない。

 

「旦那!大丈夫かい!?おい、病人だ!誰か来てくれ!」


 船頭が自分の肩を揺さぶっている。大丈夫だ……と言いかけたところで、気を失った。


 気がついた時には、庄九郎は粗末な漁師小屋の天井を見つめていた。


「おや、気がつきなさったかね?みんな心配したんですよ」


 中年の船頭がにこにこしながら庄九郎の顔を覗き込んだ。かみさんらしき女が、冷たい瓜を運んできてくれる。近くで遊んでいる七つばかりの女の子は、二人の子どもであろう。


「親父さん、丸一日目を覚まさなかったんですよ。まだゆっくり休んでおいた方が良いですよ」


 瓜を勧めながら、かみさんは優しくそう言ってくれる。

 丸一日……弱った心臓がにわかに凍りついたような気がして、庄九郎は跳ね起きた。


「い、今何時なんどき……いや、何日ですか!?」

「は?」

「今日は葉月の十五日でしょう?そうですよね?」


 鬼気迫る庄九郎を前にして、船頭とかみさんは困惑した様子で顔を見合わせる。言いにくそうに口ごもる二人を見て、庄九郎はとんでもないことをしてしまったと確信した。


「あ、旦那!」


 思わず裸足のまま表へ飛び出した。

 たちまち眩しい陽光に目がくらんだ。足に力が入らず、いくらも走らぬ内に、再び地面に膝をついた。


「おじいちゃん。無理しちゃだめだよ。落ち着いて」


 船頭の娘が追ってきて、うずくまる庄九郎の肩を優しく撫でた。

 おじいちゃん、という言葉に愕然とする。

 頭ではわかっていたはずだ。それなのに、受け入れられなかった。変わらない月乃をずっとそばで見ているせいか、いつのまにか庄九郎は、自分自身が年を取っているのを忘れていたようだ。


 船頭が追ってきて、娘を腕に引き寄せた。

 剣呑な目つきになっている。目の前の、様子のおかしい老人に、娘を近づけたくないのだろう。

 

 よろよろと立ち上がった。そうするしか他になく、庄九郎は自身の体を引きずるようにして山を目指した。

 

兎児爺トゥルイェ!」


 山の中で、庄九郎は懸命に叫んだ。


「兎児爺!どこですか?姿を見せてください。私にどうかお水を……月の変若水をちみずを譲ってください……!」


 いくら叫んでも、返事はない。

 いくら歩いてもたどり着かない。

 丸一日かけて探し回ったが、ついに庄九郎は泉を見つけることができなかった。

 

 諦めて江戸に戻ったが、本当のことはどうしても月乃に言えなかった。失望されるのを恐れて、無理やりでっち上げた話を、それでも月乃は信じ、逆に庄九郎を慰めてくれた。


 そして、一年後――― 

 たった一年のもたらした変化に、庄九郎は瞠目した。

 月乃の中で止まっていた時が、緩やかに動き始めた。

 今少し背が伸びて、胸元が膨らみ、肩や腰にも丸みが増した。

 ほころびかけのまま凍りついていた蕾が、春の日差しに溶かされて、ゆっくりと膨らみ花開くようだった。


 目を奪われた。

 その奇跡のような変化を、もっと見ていたいと思ってしまった。

 翌年と、更に翌年の十五夜―――庄九郎は、遂に変若水の泉に足を向けることができなかった。

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