第十八話

 朝起きる。

 井戸の水を汲んで顔を洗い、姿見を見ながら髭を剃り、鬢の毛を整える。

 それだけのことが酷く辛く感じるようになった。

 水面や鏡に映る自分の姿が、日一日と父親に似てくることに気づくたび、胸の中に苦いものが広がった。


『同じだよ。糞ったれの父親にそっくりだ』


 笑いを含んだ男の声が耳もとに囁く。

 二十歳そこそこの若造の声だ。不思議とその息からは、自分と同じ生薬の匂いがした。 


『お前の中にも同じ血が流れている。認めろよ。あの子が欲しいんだろう?いい加減、認めて楽になっちまえ。想像してみろ。あの華奢な体をかき抱いて、唇を……』

「失せろ」


 手拭いを振って、男の影を追い払う。ケタケタと厭な笑いを響かせながら、影は遠ざかっていった。


 以前は夜中にだけ聞こえていた妖の声は、いつしか昼夜問わず庄九郎を苛むようになっていた。

 それだけではない。時折、庄九郎は、自分が今どこにいるのかわからなくなることがあった。行商の最中、ほんの一時木陰にまどろむと、いつの間にか、心は何里も彼方へ飛び去っている。そして、おぼろ堂で、ひとり静かに薬研を使っている月乃の横顔を、少し離れた高みからぼんやりと見つめているというようなことが何度かあった。


 夢とうつつを行き来するような日々を送っていたある日のこと。俄かに妖たちがざわめきだした。


不知火しらぬいの鉄砲撃ち……』

『不知火の鉄砲撃ちが来る……』


 いつになく怯えたような声で言い交わす声を背後に聞き、帳簿をつけていた庄九郎は不審に思って振り返った。


「なんだ、一体」

『ようわからぬ』

『わからんが、怖い』

『噂だ』

『妖を撃ち抜くとか』

『あたし達に気づいたかしら』

『こわい』

『こわい……』


 中空に凝った黒雲が、落ち着きなくうぞうぞと蠢いている。

 いつか妖を討ち果たす者が現れる……半ば忘れかけていた主人の言葉が蘇る。

 とはいえ、長年何も起こらなかっただけに、庄九郎はすぐに希望を持ったわけではなかった。ただ、妖たちが動揺している様を見るのは少し愉快で、微かに笑みを浮かべた。


「お前達にもとうとう年貢の納め時が来たというわけか。ざまはないな」

 

 途端に、七つの影が、一斉に庄九郎の方を向いた。

 細く光る十四の目が、蔑むように庄九郎を見る。


『お前さん、まぁだ自分の立場がわかってねェのかい』

「なに?」

『あたしたちの終わりは、あんたの終わりでもあるんだよ……』

「なにを……」


 馬鹿なことを、と言いかけた口は、そのまま閉ざされた。庄九郎自身もどこかで気づいていた、長年見ないようにしていた不安の種を刺激されたからである。

 確かにその通りだ。今、庄九郎が月乃のそばにいるのは、妖から月乃を守るため……その妖がいなくなれば、月乃のそばにいる理由もなくなってしまう。

 怯んだところを見逃さず、妖たちは矢継ぎ早に言葉を浴びせてきた。


『誰のおかげで、今の自分があると思ってるんだい』

『俺たちがいたからこそ、あんたはこんなに長い間、お嬢さんと夫婦みたいに暮らせたんじゃないか』

『そうじゃなきゃ、あのお嬢さんがあんたなんかを気にするもんか。つまらない田舎っぺの小僧なんかを……』

「そんな……そんなことはない。お嬢さんは……」


『 “庄九郎さんというのよね”』


 びくりと肩を震わせた。

 忘れもしない。いつか自分の名前を呼んでくれた、鈴を転がすような月乃の声だ。

 妖たちは月乃の声色を真似たまま、愉快そうにしゃべり続ける。


『 “お鶴ったら、またそんな無理をして……あんまり重いものは持っちゃダメって、いつも言っているでしょう?” 』

『 “お滝ちゃん、どうしたの?またお鈴さんに叱られたの?あの人は悪い人じゃないんだけど、少し言い方がきついのよね……大丈夫よ。落ち着くまで私のお部屋でお茶でも飲みましょう” 』

『 “乙松さん、お疲れ様。今日は本当に暑かったわね。顔色があんまりよくないわよ。早めに休んでちょうだいね” 』


 お鶴、お滝、お鈴、乙松……みんな、かつておぼろ堂で働いていた、奉公人たちの名前だ。

 言われるまでもない。庄九郎は知っていた。月乃は一人ひとりの名前を憶えていた。誰にでも等しく、優しい笑顔で、心のこもった声をかけていた。


『……自分だけが特別だとでも思っていたのかい?』

『あの娘は誰にだって同じように優しいのさ』

「……関係ない。そんなこと」

 

 そう言って帳簿に目を戻すが、手が震えて文字を書くどころではない。自分でも驚くほど、庄九郎は動揺していた。


『 “不知火の鉄砲撃ち”が来たら、あんたなんて用済みさ……』


 耳元に囁かれた言葉は、呪いのように庄九郎の耳に残り続けた。


――――


 その夜はよく眠れなかったせいだろうか。翌日、薬の行商に出た庄九郎は途中で気分が悪くなり、立ち寄った茶屋で居眠りをしていた。


 夢の中で庄九郎はふわふわと江戸の町を彷徨っていた。

 白い犬の毛皮を着た、浅黒い肌の男の横顔が見える。

 雑踏の中でも浮き上がって見えるような、異様な雰囲気……腰につけた胴乱の中から、さやさやと何かが囁きかわす声が聞こえる。

 まっすぐに前を向いて歩いていた男が、不意に何かに気づいたように庄九郎を見た。鋭い切れ長の瞳の奥に、一瞬青い炎のような光が揺れる。

 

 これだ。

 この男が不知火の鉄砲撃ちだ。

 そう気づいた途端、庄九郎は芯から震えあがった。

 この男を月乃に近づけてはならない。


『来るな……こっちへ来るな!』

 

 思わずそう叫んで右手を振った時、近くにあった大八車の綱がぶつんと切れていた。積み上げられていた荷が崩落し、男に向かって降り注ぐ。

 とっさに、男が右手で顔を庇うのを見たのを最後に、庄九郎の心は茶屋へと戻っていた。わけのわからぬ寝言を言って荒い息をつく老人を、茶屋の主人はあっけに取られた顔で見つめていた。



――――


 果たして妖の言うとおりになった。

 庄九郎の無力な抵抗など何の意味もなさず、鉄砲撃ちはおぼろ堂に現れ、月乃は庄九郎を拒絶した。

 妖たちはまるでお祭り騒ぎだった。絶望する庄九郎を取り囲み、口々に嘲りののしった。


『ほうら、俺たちの言った通りになったじゃないか』

『こんなことになる前に、さっさとお嬢ちゃんをものにしちまえばよかったのに』

『中途半端に格好つけた結果がこれさ。惨めだなぁ庄九郎』

「黙れ!消えろ!化物ども!」


 怒鳴りつける庄九郎の背後から女の首が伸びてきた。するすると庄九郎の上体に巻きつき、『ばぁ』と割れた舌を出して見せる。


『あれ、かわいいこと……震えてるのかい?』

「放せ!なんのつもりだ!」

『少し前までは、お嬢ちゃんへの思いが強くて、小動こゆるぎもしなかったのにねェ。お前の気持ちが弱くなっている証だよぉ』

「うるさい!」

『かわいそうにねぇ。夫婦にしてやるなんて言葉を真に受けて……こんなに疲れ果ててしまうほど、一心に尽くしてやったのにねぇ』


 はっとして庄九郎は口をつぐんだ。

 目の前に、亡き主人……千衛門の顔が浮かぶ。

 ゲラゲラと笑う化物の声が、何重にも重なって響きわたり、庄九郎の神経をざわつかせる。


『お優しい旦那様の言葉を、今の今まで信じてきたのかい?お前を良いように使うために、口から出まかせを言ったに決まってるだろう』

「違う!旦那様はそんな人じゃない!」

『 “お前があの子の夫になってくれるなら、それ以上、何も望むことはない” ……だって?』

『そりゃあいつの話だい?』

『百年後?二百年後?』

『その頃になっても、月乃はきっと若いまま。お前は皺んだ老人か。……あるいは朽ちて骨も残らない』

『それだけならまだいい』

『約定が解ければ、月乃はここを出てゆくぞ』

『出会ったばかりの、あの男……あの猟師の手をとって』

『これだけ尽くしてやったのに』

『人生の全てをかけたのに』

『抱くこともできない女のために』

『お前は月乃の "ただ一人" にさえなれない』

「やめろ……俺の心を惑わすな……」


 聞くに堪えない暴言から心を守るために、両手で耳をふさぐ。

 それでも妖の声は、庄九郎の指の隙間を潜り抜けて囁きかけて来る。


『―――お前だけが置いて行かれる』


「やめてくれよ!」


 子どものように体を丸めてうずくまる。

 傷つき、疲れ切った庄九郎の心の中に、妖たちは不意に優しく、甘い言葉を染み入らせた。


『ひとつだけ方法があるよ』

『お前もわしらと一つになればいい』

『そうすれば、お前も俺たちも、お嬢ちゃんを好きにできる』

『何者もあんたたちを引き裂くことはできない。いつまでもずっと、永遠にお嬢ちゃんと一緒にいられるよ―――』


 庄九郎はハッとして目を覚ました。

 いつのまにか金縛りは解け、化物の姿も消えていた。誰もいない部屋の中は不気味なほど静まりかえり、遠くで雷神がごろごろと喉を鳴らすのが微かに聞こえるばかりである。

 やけにふわふわと覚束ない体を起こしてみると、夜着は夜雨に打たれたようにびっしょりと濡れている。喉の渇きを覚え、厨へ行き、甕の水を浴びるほど飲んだ。ひらめいた雷光に水がめの水が照らされ、そこに映る自分の顔がはっきりと見えた。皺んだ、土色の、孤独な老人の顔をしていた。


「……おれだけが、置いて行かれる」


 枯れ木のごとき指でたるんだ頬をなぞりながら、庄九郎は我知らず呟いていた。 

 置いて行かれる。何もかも。

 捧げた心も、忠誠も、五十年の歳月も。

 顧みられることすらなく、全て捨てていかれる―――


 俄かに身の内に膨れ上がった焦燥と怒りに、庄九郎は白髪をかきむしった。


「月乃おじょうさん……っ」


 決して枯れない花。優しさと愛情だけを注いで育てられた花。

 命を賭して守ると決めたその花を、初めて、心の底から憎いと思った。

 何もかも無駄だったというのなら、この五十年で積み上げてきたもののすべてを、おのれの手でぐちゃぐちゃに潰して、思い知らせてやりたい。


 濡れた柄杓を土間に落として、庄九郎はゆらりと立ち上がった。

 ひらめいた雷光に照らされた瞳の中には、縦に開いた蛇の瞳孔があった。

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