第十六話 

 生まれは田舎の寒村だった。

 貧しいのにとにかく子沢山の家で、九番目に生まれた子だから「庄郎」。

 少しでも口減らしになるように、十になるや否や、待ちかねていたように売りに出されたんだ。


 誰かに出自を問われた時、庄九郎は決まってそのように答えていた。貧乏人が子供を奉公に出すのは珍しいことではないし、周りにも似た境遇の小僧が多かったから、別段何か言われたことはない。


 事実は少し違った。

 庄九郎は確かに田舎の農村の生まれだったが、父親は貧乏人ではなく、地元の村政を司る豪農であった。ただの九男坊ではなく、屋の家の男坊だから「庄九郎・・・」である。

 父親は好色でだらしがなく、恵まれた懐と容姿に物を言わせて、あちこちに種をバラまいては子を産ませた。六つの頃に母を失くし、本家に引き取られた庄九郎を待っていたのは、隠居した酒浸りの父親と、腹違いの兄弟たちの冷遇であった。

 親子ほど年の離れた長兄は、殊のほか庄九郎を嫌っていた。庄九郎の面相が、父親にひと際よく似ていたからである。既に老境に入って久しい父親が、若い娘を連れ込んで浮かれ騒いでいるのを指さして、「いずれ、お前もああなる」と侮蔑を込めて吐き捨てられるたび、庄九郎は自分の体に流れる血に、逃れがたい因縁を感じて懊悩した。


 父は庄九郎の存在をほとんど気に留めてもいなかった。

 が、一度だけ、部屋の前を通りがかった庄九郎を手招きし、「酌をしろ」と酒杯を突き出したことがある。猿のように真っ赤な顔をした父親は、見知らぬ若い女を膝に乗せていた。

 女は、くれないに彩られた唇に笑みを乗せて、じろじろと庄九郎を眺めた。そして「可愛い坊やだねェ」呟くと、おもむろに細い手を伸ばして、つるりと庄九郎の頬を撫でてきた。冷たい指に、猫の仔でもあやすように喉元をくすぐられ、幼心にもゾッとしたのを覚えている。十にも満たぬ自分を、子どもではなく男として見つめた、あの熱を含んだ眼差し……あの日のことを思い出すと、未だに寒気がする。


 長兄が庄九郎を奉公に出したのは、何も家に金が無かったからではなく、愛せない末弟をできる限り早く遠くへ追いやりたかったためである。それでも、「陰間茶屋にならもっと高く売れる」などという父親の妄言には取り合わず、まともな口入屋に送り出してくれたことを考えれば、愛はなくとも、最低限の良識は持ち合わせている人だったのだろうと思う。


 おぼろ堂での奉公は覚えることが多くて大変だったし、大旦那の甚右衛門は怖ろしかったが、実家の生活に比べればずっとよかった。

 初めて、尊敬できる大人の男にも出会った。月乃の父・千衛門である。


「お前が誰の子で、どこで生まれて、どんな風に育ったかなんて関係ない。今、ここで、どんな仕事をするかが全てだ。お前の頑張りは、ちゃんと見られているよ。励みなさい」


 初登りの日、千衛門はまっすぐに庄九郎を見て、厳しくも温かい声でそう言ってくれた。

 千衛門は庄九郎が裕福な家の出であることを知っていたから、もしかしたら戒めるためにそう言ったのかもしれない。しかし、庄九郎はこの言葉に救われた。まるで生まれ直したような気がした。毎日の仕事も、勉強も、精一杯努めようと決めた。


 そして、月乃に出会った。

 生家で見てきたような、淫らでかまびすしい女たちとは全く違う。優しく、知的で、愛らしい少女……世の中にこれほどきれいな人間が存在するのかと感銘を受けた。

 月乃を見ていると、汚れた自分がどこかに消え去って、清らかな美しい世界に行けるような気がした。肉体も煩悩もすべて消えて、ただ一対の心の目になって彼女を見守ることができたら……そんな夢想をしたこともあった。



『嘘ばっかり』


 吐き捨てるような女の声が聞こえる。

 帳簿をつけていた夜だった。文机に頬杖をついて微睡みかけていた庄九郎は、まぶたを開き、背後に暗い目を向けた。

 黄色く光る一対の目が、闇の中から自分を見下ろしている。

 長い睫毛の下に、蔑むような冷たい瞳があった。


『あんたはしっかりあの娘に欲情しているよ。それなのに突き放すようなこと言って、ほんと馬鹿みたい。抱いてやりゃあよかったのに。あのお嬢さんがどれだけ勇気を振り絞ってあんたを誘ったかなんて、考えもしないんだね』

「それがお前たちの狙いなんだろう?」


 目と目の間を指でつまんでもみほぐしながら、庄九郎はそっけなく言った。


「私がお嬢さんに手を出せば、大旦那様との間に交わした契約が破れる。その瞬間、お嬢さんを攫っていくつもりなんだろう。お前たちの思い通りはさせない」

『違うね』


 ずるりと何かが肩を這う感触があり、おんなの首がずしりと右肩に乗った。紅い唇が弧を描き、舐めるように耳元で囁く。


『そんなこと、あの瞬間には、これっぽっちも考えちゃいなかっただろう?あんたはただ怖かっただけさ。この世でたったひとつの清らかな花を、自分の手で汚して散らすのが許せなかっただけ。父親と同じ、獣になるのがいやだっただけ。とんだ腰抜けだよ、全くさ……』


 かっと頭に血が上り、思わず硯を掴んで投げつけていた。

 石の硯は女の顔をすり抜け、墨汁をまき散らしながら畳に落ちた。

 女の含み笑いが闇に消えていった。



 ” 叢雲むらくも”にどうやらいくつもの人格があるらしいと気づいたのは、最初に対峙した夜からいくらも経たない内のことであった。彼らは代わる代わる庄九郎の前に現れては、脅したり、なじったり、憐れっぽく訴えたりして懐柔しようとしてきた。


 どんな揺さぶりをかけられても、庄九郎は動じなかった。 

 何があっても月乃を守ると決めていた。

 おぼろ堂の人間が、一人、またひとりと去っていくたびに、その気持ちはますます大きく固くなっていった。


「庄九郎、月乃を頼んだよ」


 敬愛する主・千衛門が死の床で囁いた言葉は、決意を確たるものにした。


「お前の気持ちはわかっている。すべてが終わったら、月乃と一緒になりなさい。お前があの子の夫になってくれるなら、それ以上、何も望むことはない……」

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