第十五話
風の強い晩だった。庭木が大きく枝葉を揺らして、さざめいている。どこか遠くで雷雲がごろごろと唸る声が聞こえる。季節外れの、大雨の気配だ。
月乃は
野外に稲妻が走る。ごろろ……とひと際強く雷鳴がとどろき、ざあっと一足飛びに雨脚がやって来た。子どもの頃から雷は苦手だ。目を閉じて身を縮めながら、瞼の裏に一人の面影を思い描く。
―――あの人は大丈夫かしら。
少し心配になる。
そばにいる……と言った銀作の声を、頭の中で反芻する。塀の外か、庭の隅にでも潜んでいるのだろうか。この天気ではずぶ濡れになってしまう……腕の傷に障るのではないかと気がかりだった。
それでも何故か、銀作はこの家を離れたりしない、という確信があった。また、そのことを申し訳なく思いつつも、ひどく安堵している自分がいることも確かだった。
月乃にとって銀作は、新しい、清らかな風だった。暗く閉ざされたこの家の中に吹き込んで、よこしまな黒い雲を吹きはらってくれるような気がする。
雨のせいか、部屋の空気が妙に湿って重く感じられた。にわかに掻い巻きが、ぐう……っと強く被さって来たような気がする。
月乃は身じろぎしようとして、ふと、自分の体がうまく動かせなくなっていることに気がついた。眠っているわけではない。意識は妙に冴え冴えとしているのに、体がどうしても動かせない。
金縛り――― さっと全身から血の気が引いた。うるさいほどに屋根を叩いていた雨の音が、にわかに遠のいたような気がする。心臓が強く、速く、内側から胸を叩いている。
息を殺し、固く目を閉じて、じっとしていると、静かに部屋の襖が開かれたのがわかった。何者かが忍び足で近づき、上から自分を覗き込んでいるのがわかる。熱く、湿った息が耳元に吹きかけられ、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。襦袢の袷から差し込まれ、胸元を探ってきた手の感触に、月乃は雷に打たれたような衝撃を受けた。それは明らかに血が通った、人間の男の手のひらだった。
「―――いやっ!」
勇気を振り絞って声をあげた口を、もう一方の手にふさがれる。恐ろしい力だった。思うようにならない体を必死で動かし抵抗すると、嗅ぎなれた生薬の匂いが、男の着物から香った。
目を見開く。
血走った眼でこちらを睨んでいたのは、番頭の庄九郎だった。
どうして―――
凍える湖面に身を打ちつけられたような衝撃の中で、ただ一言、その言葉だけが月乃の脳内を占める。
出会った頃の庄九郎は、当時の月乃と同じ、十歳の少年だった。働き者で面倒見がよく、目下の小僧たちにも慕われている姿を、月乃はずっと好ましく思っていた。
妖の存在が明るみになってからは、庄九郎だけが頼りだった。年に一度、時を戻す不思議な水を持ち帰り、隣に座して共に妖と対峙してくれる。誰もが離れていく中で、見捨てず傍にいてくれた、ただひとりの人……憧れは確かな熱をはらんだ恋心に変わり、すべてを投げ出してもいいと思えるほど焦がれた時すらあった。
あれから数十年―――想いが褪せたわけではなかったが、それは激しく燃え上がるような恋心というよりも、埋め火のように強く温かな、家族に向けるに等しい愛情に形を変えたのだと思っていた。庄九郎も、それは同じだと思っていた。
それなのに、なぜ今更―――
そんなにも、昼間の月乃の言葉が許せなかったのか。
二人で戦ってきたはずの年月が、絆が、全て無かったことにされたかのようで、恐怖よりも、悲しみと悔しさで涙がこぼれた。
その時。
「熱ッ……!」
不意に庄九郎の体が離れた。左手で右手をおさえ、火傷でもしたかのように呻いている。
月乃は身を起こし、乱れた胸元をかき合わせて顔をあげた。
懐からこぼれた懐紙が、鈍い青色に発光していた。
それはやがて、めらめらと燃えながら宙に浮かび上がり、やがて包みを燃やし尽くして、一つの青白い人魂の姿になった。
「これは……」
瞬間、爆音をたてて障子が蹴破られた。
部屋に飛び込んできた黒い人影が、疾風のように二人の間に入り、容赦なく庄九郎を蹴り飛ばした。
「銀作さん…!」
銀作の笠から、背に負うた毛皮から、冷たい雨粒がふるい落とされ、ばらばらと月乃の顔にかかる。
銀作は鬼の形相をしていた。
見間違いではない。両目にはやはり、青白い光が宿っていた。
手には既に火縄銃がある。濡れないように笠の下に庇っていたようだ。
月乃を守っていた人魂が、ふわりと銀作のもとへ漂った。
銀作はそれを右手で直に掴む。ぐっと握りこむと、たちまち人魂は、きらりと光る鉛の弾丸に変じた。銀作はそれを素早く銃口から火薬とともに装填し、庄九郎の背後に向かって構えた。火縄にボッと青い炎がひとりでに灯った。
「出でごい!」
ドスの効いた声に、辺りの空気がビリビリと震える。
「出でごい、この卑怯もん
うずくまる庄九郎の背後で、どろりとした闇が渦を巻いた。
『みつかっちゃった』
『みつかっちゃったァ』
『おしいのォ』
『あと少しであったのになァ』
『とんだ邪魔が入ったこと』
『くしやの』
『くやしやのォオ……』
立ち込める黒い雲……それが吹きつける風に飛ばされるように、見る見るうちに晴れていく。その闇の奥にいるものの姿を、月乃は初めて、はっきりと目にした。
ぬるぬるとうごめく長い胴。
雷光をうけて光るうろこ。
八つの頭を持つ蛇……まるで
異様なのは、その八つ内、七つの頭が人間のものであるということだ。
町人髷の男の首、兵庫髷の女の首、頬のふくふくとした子どもの首、鬢の毛の乏しい老人の首……様々な首を果実のようにぶら下げている。どの首も、炯々と光る黄色い目を持ち、鼻が低く、口は耳まで切れ上がっている。その口を大きく開けて、ケタケタと愉快そうに嗤っているのだった。
『月乃おじょうちゃん、こんばんはァ』
『ご機嫌いかがかねェ』
『おや、ふるえてるのかい』
『まぁ、かわいいこと』
『さむいのかなぁ』
『俺があっためてやろうか。ほれ、こっちへ来いよ』
『おいで、おいで』
からかうような言葉を投げては、ニタニタ笑っては舌を出す。
その舌が異様に長い。舌先がぷつりと二つに割れていて、チロチロと踊るように蠢いている。
月乃は絶句していた。
想像していた姿と全く違う。
いつか夢で聞いた声とも少し違う。
あの時の声はくぐもって聞き取りにくかったが、今、それぞれの首が発する声はくっきりとしていて、男の声、女の声、子どもの声に老いた声と、様々な色がある。その一つ一つが、背筋を下から撫で上げるように、ぞわりぞわりと苛んでくる。
『それにしても、使えねぇ奴だなァ、庄九郎』
町人髷の若い男の首がゆらりと動き、うずくまる庄九郎の肩を軽く小突く。
『せっかく俺たちが教えてやったのによォ。結局、鉄砲撃ちを中に入れちまったのかよ』
『そうそ。ほーんと当てにならないんだから』
『まァ、そう責めてやるなよ。相手が悪かったんだ』
『そうそう。頑張ったのよ、この子だって』
『
『あんな深手で、のこのこ妖の巣に入って来る、この旦那の方が変なんだよォ』
「……どういうこと?」
ゆるんだ帯を直しながら、月乃は信じられない思いで庄九郎を見つめた。
庄九郎に対する妖の態度は、まるで友人や仕事仲間のように気安いものだ。昨日、今日で形作られるような雰囲気ではない。
「どういうことなの、庄九郎さん……追い返そうとしたって、なに?あなたが銀作さんに、怪我を負わせたの?」
かつて、初めて妖に対峙した時、庄九郎は強い言葉と態度ではねつけたはずだ。悪しきを寄せつけない、清廉な魂をそこに感じた。
今の庄九郎は、うなだれたまま動かない。
いくつもの首に馴れ馴れしくまとわりつかれても、されるがままになっている。
胸にぽとりと落とされた不審は、黒いシミのように広がって、月乃を凍えさせた。
「……信じてたのに」
思わずその言葉を呟いた時、妖たちはゲラゲラと一層愉快そうに嗤った。
その時である。
『ちがうよう』
聞こえたのは子どもの声だった。十やそこらの幼子の声だ。
一番小さな、芥子坊主の男の子の首だった。
他の首はあっけに取られたようにぴたりと押し黙る。
芥子坊主の首は、するすると庄九郎のそばに来ると、慰めるように、そっとその肩に顎をのせて寄り添った。
『おいら、しってる。みてたもの。しょうくろうはね、ずぅっと、ずっと……ほんとうに、つきののことがだいじだったんだよォ……』
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