終章

 夢を見ていた。

 むっとする草いきれの中、見上げた空に広がる満天の星。

 キラキラと広がる星屑が、甘い甘い金平糖になって、ぱらぱらと降り注ぐ。

 落ちてきた七つの金平糖を、兎児爺トゥルイェの銀の柄杓が受け止める。柄杓から溢れてしたたった甘露の一滴が、ぽつんと庄九郎の頬をぬらす。温かいその雫に触れて、庄九郎はそれが、誰かの涙であることに気がついた。


 重い瞼を開くと、潤んだ黒目がちの瞳と目が合った。月乃の膝に頭を預けて、庄九郎はほんの一時、微睡んでいたらしい。


「月乃、おじょうさん……」


 囁いたおのれの声が、情けないほど小さく弱弱しい。

 心臓の動きが、だんだんと小さく、弱くなっていくのを感じる。

 肘から先の感覚が無い。 “叢雲”と癒着した部分は、それが退治された時に千切れて一緒に持って行かれてしまったらしい。

 どうやら間もなく、自分は死ぬ。その前に、言っておかなければいけないことがある。


「まこと、言い訳のしようもございません。最後の最後に、妖にたぶらかされて、あなたを傷つけてしまった……いいえ、そうではありません。もっとずっと前から、私は過ちを犯していたのです」


 心臓が奇妙な拍を打ち、締めつけられるように苦しくなる。

 庄九郎はぐっと奥歯を噛みしめて、苦痛を押し殺した。一つ、大きく息をして、再び乾いた唇を開く。


「まこと、あなたのことを思うなら、私はもっと早く、他に頼れる人間を見つけておくべきだったんだ。何者も時の力には勝てない。いつかは自分もいなくなることなどわかり切っていたのだから、救いを待つのではなく、自らの足で探しに行くべきだった。

 わかっていたんです。わかっていたのに、私にはできなかった。自分だけが、あなたを救う存在に……あなたにとっての“ただ一人”になりたいと、思ってしまった。私の利己の心が、あなたを孤立させ、苦しめてしまった……」


 やわらかい手のひらが、優しく庄九郎の頬を撫でる。

 月乃は微笑んでいた。泣き笑いの頬の上を、いくつもいくつも、涙がすべって零れ落ちる。


「本当、ひどいわ……あなた、もうずっと前から私の “ただ一人” だったのに。ちっとも気づいていなかったのね。

 私ね、あなたが思ってるほど、きれいな女の子じゃないのよ。お友達があなたの名前を知りたがった時、私、意地悪して教えてあげなかったの。独り占めしたかったのは、私も同じ……」


 降り注ぐ熱い雫は恵みの雨のように、乾いた庄九郎の心を潤した。

 月乃の笑顔が、くしゃりと歪んだ。忍び寄る別れの気配に怯えて、細い肩が小さく震え出す。


「あなたと同じ歩幅で、同じ時を歩んでいけたらって、ずっと思ってた……だから、ねぇ、もう自分のこと、汚いなんて言わないで。あなたがいてくれたから、私、諦めないで生きてこられたの。……あなたのことが、大好きよ。庄九郎さん」


 胸が苦しい。

 弱り切った心臓が、生きたいと懸命にあがいている。

 やりきれなくて、庄九郎は目を閉じた。

 これ以上、月乃を見つめていたら、魂が離れられなくなってしまう。


「……それでも私は、許されないことをしました。唯一の希望たる銀作殿を遠ざけ、怪我まで負わせてしまった。のみならず、到底許されざることを、あなたにしようとした。これ以上の不忠はありません。地獄に落ちても、償いきれない……」

『それは違うよ、庄九郎』


 不意に懐かしい声を聞いて、庄九郎はハッとして両目を開いた。

 月乃の隣に、亡き千衛門のおぼろげな姿があった。

 優しい瞳が、庄九郎を覗き込んでいる。


『庄九郎。責めはすべて、私にある。お前が地獄に落ちると言うなら、私がお前とともに行こう。私の口から、閻魔様に申し開きをするよ』

「まさか、何をおっしゃいます……!」


 慌てて首を振るが、千衛門の意志は固かった。

 先の無くなってしまった庄九郎の腕を優しく叩き、言葉を続ける。


『私がお前に言ったことに、何一つ嘘は無いよ。お前ならきっと月乃を守ってくれるだろうと信じていたし、いつか月乃と一緒になってくれればいいと願っていた。

 だけどね、お前が若返りの水を探しに行くと言ってくれた、あの時……私はお前に、甘えるべきではなかった。主人や父親である前に、良識をもった一人の大人であるならば、私はお前を逃がすべきだったんだ。お前が自分の全てをなげうっても月乃のために尽くしてくれるだろうことが、私にはわかっていたのだから。何人たりとも、他の命のために犠牲にしてもいい存在などないのに……それなのに、私は娘を想うばかりに、お前を巻き込んでしまった……』


 透きとおった真珠色の頬に、涙が後から後から流れて落ちる。

 

『我が父と同じ利己の心は、私の中にもあったのだよ。ゆるしてくれとは言わない。償えるものとも思わない。ただ、せめて、今の私にできる全てのことをさせておくれ……もう二度と、暗く冷たい孤独の中に、お前を一人置いて行ったりはしない』

「しかし、旦那様、いけません。旦那様が地獄へなんて……」

『なぁに、平気だよ。もうずっと前から覚悟していたことだ。それに、月乃のことは、これからも妻が見守ってくれる。何も心配することなんてないんだよ』


 そっと、真珠色の優しい手のひらが、月乃の頭を撫でる。

 ハッとして振り向いた月乃の瞳に、優しい母の微笑みが映った。


 庄九郎は嘆息した。

 苦し気に歪んでいた面から、ふっと苦痛の色が消え、束の間、いつかの少年の顔がのぞいた。月乃お嬢さん、と彼は最後の一息で囁いた。


「どうか、忘れてください。妖のことも、私めのことも、何もかも……すべてを忘れて、幸せにおなりください」



―――


 厚い黒雲の絶え間から朝の光が差し込む頃、銀作は屋敷の床板を剥がし、化物が消えた辺りの土を掘り返した。果たしてその下から現れたものは、大小さまざまな七人分の人骨―――そして、それらに絡みつくようにして息絶えている、一匹の長大な大蛇の死骸であった。

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