第二十話
『長月の
『霜月の十日。奉行所からお役人様が父を訪ねて来られた。漏れ聞こえた所によると、父の贔屓にしていた遊女が出奔したとかなんとか。よもや関わりはないだろうが、いい年をしてかような疑いをかけられること自体が何とも情けない。いい加減、遊女遊びなど慎んでもらいたいものだ』
『睦月の五日。大晦の掛け取りの最中に行方をくらました長吉は、まだ戻ってこない。そそっかしい奴ではあるが、これまで何も言わずに遊びに出るようなことは一度もなかったのに……国元にも尋ねてみたが、どうやら里帰りしたわけでもないようだ。一体どこへ行ったのか……早く行方がわかるといいのだが』
『弥生の二十日。この所、
『皐月の十五日。このところ、薬草売りの巳之介が姿を見せない。貴重な薬草もよく仕入れてくれるから頼りにしていたのに、残念だ。他の仕入れ先を探さなければ……』
『文月の二十一日。近所の子どもが神隠しに遭ったと聞いた。まだ四つか五つばかりの子だったはずだが、可哀そうなことだ。早く見つかるといいのだが……』
『神無月の十一日。外出先から戻ったところで、女中のお縞が国元に帰ったと聞く。母危篤の知らせを受け、急いで長屋を引き払って帰ってしまったという。私がいないので、代わりに父の許しを受けたらしいが、とかく急な話で、他の女中たちも戸惑っている。何も辞めなくとも、事情があるなら休みを取らせたのに……』
月乃の祖父・甚左衛門が既に亡き今、彼と妖との間にどのようなやり取りがあったのかは、想像する他ない。しかし、妖の姿を見た銀作は、千衛門の記録、および与兵衛が調べた内容から、次のような事情があったのではないかと推察している。
おぼろ堂は、甚右衛門の代で急に大きくなり、財を築いたという。恐らくそれは「守り神」―――“叢雲”を名乗る妖の力によるものだろう。甚右衛門はその対価として、身近な人間の命を妖に捧げていた。これだけたくさんの人間を手にかけておきながら、確たる証になるものが何もなかったというのも妙な話だが、もしかするとそこにも妖の力が働いていたのかもしれない。死体ごと消えたという真右衛門の例がそれだろう。
妖に喰われた人々は、妖の体に魂ごと取り込まれ、成仏することもできなかった。長い年月の中で、魂が癒着し、自分が何者なのかという意識さえ希薄になっていった。
ただ、よほど怖しく苦しい思いをしたのであろう。恐怖と恨みだけが消えずに残り続け、吐き出すこともできないまま、どんどんと膨れあがっていった。出口のない暗闇の中で、何年も、何年も、彼らは苦しみ苛まれ続けた。
そして、遂にはけ口を見つけた。
それが月乃―――甚左衛門の血をひく娘。
妖に嫁すことを約束された娘である。
『そうだ……
薬草売りの巳之介の首が、地を這うような声で言う。既に浮かび上がる力もなく、片頬を畳に擦りつけていたが、目だけは怖ろしい光を湛えて月乃を睨みつけている。
『そうさ。散々苦しめられてきたんだ』
『嬢ちゃんも同じ目に合わせてやる』
『あんたの爺様の重ねた罪だ。代わりに償ってもらうよ』
『恨むんなら爺様を恨むがいいさ』
ずず。
ずず……
おのおのの首が、畳の上を這いずって月乃に近づいて来ようとする。
月乃は、何も言えなかった。
全身が凍ったように冷たく、震えが止まらない。
知らなかった。
この家に宿っていた「モノ」が、傷つけられた人間たちだったなんて……それも、血のつながった己の祖父に苦しめられた人々だったなんて、知る由もなかった。
涙が止まらない。
何も言えない。
仮に月乃が心から謝罪した所で、何一つ彼らの救いにはならない……どうすればいいのかわからなかった。
視界に、すっと、銀作の手のひらが映った。
晒し木綿の巻かれた右腕。月乃が手当てをした腕を、銀作は月乃を守るように広げていた。
「この娘は何も関係ねぇ。ただ、この家に生まれた。それだげだ。本来、何も恨まれるいわれはねぇんだ」
『嘘だ』
『嘘だ』
銀作の言に、首たちは口々に声を上げる。
『だってそいつは、甚左衛門の孫娘だ』
『俺たちを殺して得た金で、贅沢して育った娘だ』
『許せない』
『苦しめ』
『苦しめ』
大きくなる怨嗟の声。
銀作はきっぱりと首を横に振る。
「もう十分苦しめた。稼いだ財産は使い果だしだ。心労で親も
『十分なんてことがあるもんか!』
叫んだのはお縞の首だった。
頬と額に、うっすらと
『あたしたちは殺されたんだ!七人も殺されたんだ!七人分、苦しめてやんなきゃ収まるわけないだろう⁉なのに、何でだよ。何であんたはそうやって守られるのさ。あたしにはいなかった!優しいお
銀作は、じっとお縞の顔を見つめた。
一歩、二歩、と前に踏み出し、お縞の傍に片膝をつく。
切れ長の鋭い眼にすぐそばから見つめられ、お縞はひるんで言葉を失くした。
他の首たちも気圧されたように静かになる。
不意に、銀作の顔から、それまでの険が消えた。
大きく表情が変わったわけではない。
ただ、濁りの無い悲しみが、その
「……んだな。辛かったな。苦しかったな。そんでもだめだ。だめなもんは、だめなんだ」
お縞の首が泣き出した。
迷子の童女のような、聞いているだけで切なくなるような泣き声だった。
他の首たちも一斉に泣き出した。駄々をこねるように畳に頭を擦りつけながら。
『いやだ』
『足りない』
『苦しい』
『寂しい』
『まだ終わりたくない。このまま死ねない……』
『苦しめ』
『苦しめ』
『もっと、苦しめ……!』
声を上げる首たちに、銀作は最早何も言わない。思うがままに、言いたい放題に言わせている。
不意に彼らの声音が変わった。何か恐ろしい記憶が蘇ったかのように、悲鳴を上げ始める。
『いやだ!来ないでよ!あたしに触んないで‼』
『まだ死にたくない!放してよォ!』
『許してください……今見たことは誰にも話しませんから……!』
『ふざけんじゃねェ、
『おっ母さん、どこォ……こわいよォ、助けてよォ……ッ』
『頼むから帰らせてくれ……うちにゃ病気の娘がいるんだ……』
『おのれ、甚左……このまま終わると思うなよ……末代までも祟ってやるからなァ‼』
最後に大きく恨みを吐いた真右衛門の首が、不意に、ふっと脱力した。両目が虚ろになり、ぼんやりと宙を見つめている。
気づいたのだ。
どんなに叫んでも、呪っても、失われたおのが命は戻らない。
人に憎まれることは苦しみだが、人を憎み続けることもまた苦しみである。
人間の心の器は、憎しみという重い感情を、とこしえに抱き続けられるほど頑丈にはできていない。
銀作によって妖異から切り離され、人間としての心地をわずかばかりも取り戻した彼の心は、唐突に疲れと虚しさを感じたのだろう。
彼は既に、憎むことに
『……つかれた』
呟いた老人の頬に、一筋の涙がこぼれ落ちた。
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