第十三話

「どうも、お疲れさんでした」


 おぼろ堂を出て、いくらも歩かない内に、白壁に背を預けた男から声をかけられた。

 菅笠に藍の道中羽織を着た商人体の男である。六尺近い長身で、股引を穿いた足がすらりと長い。男は、吸っていた煙管の灰を落とすと、好奇心の強そうな目にまろやかな笑みをのせた。右の目じりに、ちょんと筆でつついたような黒子がある。


「幸吉さん、来でだんか」


 銀作は目を丸くした。幸吉は笑いながら煙管の始末をし、煙草入れに戻す。


「別に貼りついとったわけやないよ。銀作さんのことは信用してっさかい」

「んだか」

「ほんでも、まずは軽~く様子見やて言うてはったんに、一刻、二刻と戻らんかったら、流石に心配にもなりますて。銃声の一発も聞こえたら踏み込まなあかんておもとったけど、元気に出て来はって一安心ですわ」


 幸吉はなめらかな江州弁でぺらぺらと話しながら、足元に置いていた天秤棒を拾い上げると、銀作の横に立って歩き始めた。天秤棒の両端には、それぞれ一つずつ行李が提げられている。


「よっぽど厄介な相手やったんやろか。その、鬼のお嬢さんゆうんは」

「話が違う」

「ほぉん?」

「角も牙もね、普通の娘っ子だ。思っだよか、話せる娘で助がった。一筋縄じゃいがねだろが、おおまかなどごはわがっだしな」


 実の所、銀作がおぼろ堂へやって来た経緯は、庄九郎の指摘した通りであった。

 故郷の羽州を出立して、関東の山々を渡り歩きながら猟をしていた銀作は、その道中で、以前からの知己である幸吉と偶然再会した。幸吉は近江の国出身の商人で、国元から関東、東北地方までを巡って商売をしている。

 そのような仕事柄、幸吉には各地に多くの知り合いがいる。のみならず、彼はちょっとした事情から、銀作が目にする「不思議なものども」についても理解が深かった。そこで、今回銀作に、「江戸の某町の町名主になった男が、おぼろ堂という化物屋敷の扱いに難儀しているのだが……」という話を持ち掛けたのである。

 

「ひとまず、一旦お屋敷に来てもらえますか?名主様も心配したはるし、直接報告してもらえるとありがたいんやけど」


 通りの先を指す幸吉に頷き、銀作は名主の屋敷へと歩き始めた。



―――



「早速様子を見に行ってくださったんですか。ありがとうございます」


 町名主・美濃屋みのや与兵衛よへえは、何度も頭を下げながら幸吉と銀作を奥の間へ通した。色白な小男で、申し訳なさそうに垂らした眉が、いかにもやさしげである。年も若く、銀作や幸吉とさほど変わらないように見える。

 腰が低いのは婿養子でもあるからだろう。つい先だって別の町から移ってきた矢先にしゅうとが急逝したため、家業とともに名主のお役目も継いだのである。町の事情に疎いながらも懸命に務めを果たそうとしていたところ、どうもきな臭い噂を聞いた。


「あの店は、人を喰います」


 美濃屋に仕えて六十年という腰の曲がった下男は、声を低めてそのように言った。

なんでも、町内にあるおぼろ堂という薬屋に、鬼と化した娘がいるという。永遠の命を求めて古今東西のあらゆる薬を試し、宿願叶って不老不死の体を手に入れたものの、その口はいつしか人肉以外を受けつけぬようになっていた。娘が喰い散らかした人間の肉が屋敷の池に浮いたとか、心配して見舞いに来た友だちさえ喰おうとしたとか、様々な怖しい噂が流れた。客は寄りつかなくなり、奉公人も逃げ出し、かつての繁盛ぶりが嘘のように店は寂れた。今では不老不死の鬼女と、娘に魅入られた番頭だけが、息をひそめて暮らしているのだという。


「何卒、あの店には関わられませぬよう……」


 下男を始め、何人もの古株の奉公人や、隣近所の者からもそう言われたが、町名主という立場上そうもいかない。多忙を極める町奉行の下につき、実質的に町政に当たるのが町名主である。まして、御公儀から普請の話が来た以上、おぼろ堂だけをそのままにしておくわけにもいかない。

 どうしたものかと思案していた所へ、幸吉から銀作を紹介されたのである。 


「本人がら聞いだ話は全然違った」


 銀作は呆れ半分、腹立ち半分にそう言った。殊に、一番の被害者である月乃自身が、諸悪の根源のように言われているとは気の毒な話だ。噂には尾ひれがつくとか、一人歩きするとか言われることが多いが、そんな生易しいものではない。にょっきり生えた足で全力疾走していく様子が見えるようだ。


「銀作さんがお嬢さんに騙されとる可能性は?」


 まぜっかえす幸吉に、「わざわざ獲物の手当でさする鬼が、どごさいる?」と銀作は袖をまくって見せた。丁寧にさらしを巻かれた腕を見て、幸吉は「たしかに」と頷き、目を細める。


「どないな鬼婆がおることかて勇んで行ったら、何のこっちゃない。心優しき乙女が捕らわれとったっちゅうことか……」


 幸吉は胡坐に頬杖をつき、独り言のようにぼそりと呟いた。


「まるで、大江戸版『いばら姫』やな」

「いばらひめ?」


 銀作だけでなく、与兵衛も初耳だったらしい。首を傾げる二人に幸吉は説明した。


「欧州に伝わる昔話です。悪い仙女に呪詛された美しい姫君が、死を免れるために百年の眠りにつく。殿さまも北の方も奉公人も、姫様のためにみんな一緒に眠る。お城は生きた茨に守られて、だァれも近寄れん。百年たったある日、隣国からやって来た若者が呪いを破り、姫君を救い出す……そんな話ですわ」


 「いばら姫」を含むグリム童話集が欧州で刊行されたのは一八一二年。邦訳版が日本で出版されるのは、今少し時代を下った明治二十年の話である。幸吉は、付き合いのある異国商人から、何かのついでにこの話を聞いたらしい。


 なるほど。まがつ神との契約から身を守るため、時が止まったような屋敷の中で五十年間生きてきた月乃も、眠れる森に閉じ込められた姫君のようなものかもしれない。

 銀作の頭に、立派な天守をいただいた千代田の御城と、それに絡みつく茨の蔓、そして、その奥でちんまりと心細げに座っている月乃の様子がぼんやりと浮かんだ。なんとも珍奇な絵面である。


「どんた風に呪いさ解いだって?」


 此度こたびのことの参考になるやもしれぬ、と一応尋ねてみる。

 幸吉は真剣な顔になり、ずいと身を乗り出した。


「それはな……」

「うん」


 釣り込まれるように銀作も身を乗り出す。

 幸吉はもったいぶるように十分な間を取った後、不意にふっと意地の悪い笑みを見せ、視線を外した。


「やめとこ」

「はっ?」

「銀作さんには、まだ早いわ」

「あ?」


 あまりにもあからさまな侮りに、カチンときたらしい。銀作は一気に鼻白んだ顔になった。ぎろりと三白眼になった目に、なかなかの迫力がある。


「おめ、わざど続ぎ気になるどごで切り上げだな?」

「気にせんとって。いずれ時が来たら、いくらでん語って聞かせるさかい」

「何がまだ早えだ。おら、次の正月で二十四だぞ」

「もう大人やて言い張るとこが、ますます子供っぽいわ」

「四の五の言わねで話さねが!」

「いーやーやァ」


 胸倉をつかんで揺さぶられても、幸吉は平気な顔をしている。

 突如として悪童のようなじゃれ合いを始めた二人を、与兵衛はあっけに取られた顔で見つめた。

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