第十二話

「待って!」


 後を追おうとした月乃に、「お嬢さん!」と庄九郎が厳しい声を投げた。


「追ってはなりません」


 手首をつかんできた庄九郎を、月乃は怒気をこめて睨みつけた。


「どうしちゃったの、庄九郎さん。あなたらしくないわよ。初めて会った人に、あんな失礼な態度をとるなんて……」

「あの男を信用するんですか」

「私が町の人からどう思われてるかなんて知ってるわ。いずれは、そんな時もくるかもしれないとは思ってた。でも……ここに来たきっかけはどうあれ、あの人は私の話をきちんと聞いてくれたのよ」


 月乃は改めて庄九郎に向き直った。左の手首を握る、骨ばって、シミの浮いたその手を、そっと包むように右手で撫でる。涙をこらえながら、まっすぐに目の前の男を見つめ返す。

 五十年。

 檻のようなこの屋敷で、ただ一人そばにいてくれた人。

 妖を前にしても一歩も退かずに、守り続けてくれた人。


「今まで、本当にありがとう……」


 声が震えるのを、ぐっと押し殺す。

 もっと早く手放すべきだった。逃げろと言わなければならなかった。

 あまりにも長い時間、月乃は庄九郎をそばに留めすぎてしまった。


「私はもう、いい。もう、いいのよ……妖のお嫁になっても、妖として鉄砲で退治されてもかまわない。だけど、あなたは自由にならなくちゃ。あの人の力を借りれば、あなたはきっと安全にこの家を離れられる。だから……」

「誰がそんなことを望んだと言うのですか!」


 叩きつけられた声に、月乃は耳を疑った。

 庄九郎はすさまじい形相をしていた。両の目をかっと見開き、首から上を真っ赤に上気させたその顔は、歪んだ仁王像のようだった。

 

「どこへ行けと言うのですか!かように老いた、何も持たない、何者でもない男に!不要になったから、もう役には立たないからと、捨てて行かれるのですか!?私にはもう、あなたしかいないのに……!

 自由なんていらない。私が望むのは、ただ、あなたとずっと……ずっと、この場所で……!」


 くっきりと皺を刻んだ顔の上に、赤子の癇癪がのっている。かつては知性と情熱に輝いていたはずの黒い瞳は、今や暗い欲望と執着を湛えて淀んでいる。


 月乃は不意に、どっと疲れを感じた。目の前の男と自分との間に、渓谷のような深い隔たりがあるのを感じた。

 一年に一度、月乃の口に変若水を運ぶこと……その役目は、月乃の思っていた以上に、庄九郎の中では重要なものだったのかもしれない。存在意義とも呼べるほどに。それを失った今、庄九郎は恐れている。自分がいなくなりそうな恐怖を抱えて震えている。

 そうならないように、庄九郎は月乃の手を掴んでいるのだ。いびつな永遠の中に引きずり込んで、逃がすまいとしている。


 ―――だけど、言ったじゃない。

    いつかきっと光の中へって、そう言ったじゃない。


 胸の中で、庄九郎に訴えかける。

 月乃は信じていた。庄九郎と二人で、光の中を歩くその時を、ずっと夢見ていた。庄九郎もまた、同じ夢を見てくれているのだと、そう思っていた。

 違ったのかもしれない。庄九郎はただずっと、闇の中で孤独に咲き続ける花を見て、胸を満たしていただけだったのかもしれない。二人で光の中に出てゆく未来など、考えもしていなかったのかもしれない。


 ―――まるで、知らない人みたい。


 おのれの手を掴む指が、かつてときめきを覚えたその手のひらが、今は鍵縄のように手首に食い込んで、痛い。驚くほど急速に胸の中が冷えて、思わず庄九郎から身を離していた。


「……あ」


 年老いた番頭の瞳に、ふっと正気の光が戻る。

 自分自身の放った言葉に狼狽した様子で、おろおろと弁明の言葉を探している。


 庄九郎の言っていることは、きっと、間違いではないのだろう。若者ならば喜んだはずの「自由」という言葉は、今の庄九郎にはひどく残酷に響いたのかもしれない。

 けれど、せっかく見えた光明を、自ら黒く塗りつぶそうとするかのような今の庄九郎を、月乃は到底受け入れることができなかった。未来を信じ、二人で乗り越えてきたはずの五十年の重さがあるからこそ、受け入れることができなかった。

 

「……手を放して」


 自分でもぞっとするほど冷たい声が出た。庄九郎がひるんだように瞳を揺らす。

 もう一度口を開く。語気が強くなるのを止められなかった。


「放しなさい、庄九郎。私はこの店の主人として、あの方に、あなたの非礼を詫びる義務があります」


 捨てるなんて、そんなわけないじゃない。

 あなたは、私の一番大切な人。

 役に立つとか、立たないとか、そんなの考えたこともない。

 だって、赤松の木の下で受け止めてくれたあの日から、私はあなたに、ずっと、ずっと、恋をしていたんだから……


 そう、言葉にして言ってやればよかったのだ。

 しかし、できなかった。

 庄九郎の胸中よりも、銀作がこの家を離れてしまうことの方が、今の月乃にとっては重大事だった。


 老境の男の瞳に、捨てられた子どものような悲哀の色が浮かんだ。するりとほどけた手を乱暴に振り払い、月乃はくるりと踵を返す。

 銀作を追う月乃の背中を、庄九郎は呆けたように見送っていた。




―――




「銀作さん……!銀作さん、待ってください!」


 銀作は既に、店頭まで来ていた。

 月乃はぱたぱたと後を追った。忙しなく店の薬箪笥を開け閉めし、急いで調えた薬の包みを差し出す。


「あの……店の者が大変な失礼を。申し訳ありません。お代は結構ですから、せめて薬をお持ちください。軟膏と、痛み止めと、化膿止めと……腕の傷が早く治るように……」


 不意に、銀作が立ち止まって振り返った。危うくその胸にぶつかりそうになり、月乃は慌てて足を止める。銀作は右手の人差し指を自分の唇にあて、「静かに」と身振りで示していた。腰に提げた二つの皮の胴乱どうらんの内、一つを開けて、何かを取り出し、懐紙に包んで月乃に差し出した。


「これを懐に。……直には触れねぁよう、気ぃつけで。何かあれば、おらにはわがるようになってらがら」


 受け取ると、懐紙ごしに、硬くて丸い感触が指に伝わった。

 月乃は顔を上げた。銀作は微笑んでこそいなかったものの、表情は穏やかで、怒ってはいない様子だった。


「そばにいる。心配するな」


 胸に熱いものがこみ上げて、月乃は瞳を潤ませた。

 銀作は、月乃を見捨ててはいなかった。守るつもりでいてくれる。

 銀作は無表情のままうなずくと、薬草の包みを受け取り、さっさと店から出て行った。白いマタギ犬の毛皮を着た背中が、とても大きく頼もしく見えて、月乃は静かに、その場で頭を下げた。

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