第十話

 おぼろ堂では奉公人たちに、薬の知識だけでなく、基本的な傷病手当の指南も行っていた。薬を売るだけで、正しく使う能の無いものは、一人前の薬売りではないというのが、父・千衛門の言であった。月乃も幼い頃から学びの場に顔を出し、女中に手伝ってもらって手当の仕方を練習してきた。店がこのような状態になってからは、庄九郎相手に実践することもたまにあった。

 

「……ひとまず、これで大丈夫かと思います。後でちゃんとお医者に診せて下さいね」


 傷の手当を終えた後、薬と晒し木綿を箱に戻しながら念を押す。初対面の相手に実践したのは初めてだから、正直な所あまり自信が無い。

 男は晒し木綿を巻かれた腕を、感心したような目でしげしげと見つめていた。やがて、はたと月乃の顔に目を戻し、思い出したように「どうも」と短く礼を言った。

 

 男は銀作と名乗った。

 羽州の生まれで、諸国を旅しながら熊を獲っている「旅マタギ」であるという。

 特にその手の修行をしてきたわけではないが、どういうわけか子どもの頃から不思議なものがよく見えた。不運にも、手持ちの薬を切らしたところで怪我を負い、薬を求めて町に降りたが、この家の不穏な空気が気にかかって訪ねてみたのだと言う。


 月乃はこれまでの経緯を男に語った。

 十四歳のある日、初めて夢の中に「守り神」を自称する「モノ」が現れたこと。そうして迎えた朝の凄惨な光景。殺された陰陽師と、危険にさらされた親友のこと。奉公人の庄九郎が見つけてくれた、不思議な薬水。それを毎年飲むようになって以来、体が成長しなくなったこと。


「でも、もうその薬も、使えなくなったんです……」


 月乃は俯きながらぽつりとそう言った。

 実はこの三年、月乃は変若水をちみずを飲んでいなかった。

 三年前、いつものように隠岐の島の泉へ行った庄九郎は、そこで今までにない異変にみまわれた。これまで毎年晴れ渡っていた十五夜の空がにわかに曇りだし、月が隠されてしまったのである。

 月が泉に映らなければ、変若水を汲み上げることはできない。庄九郎は途方に暮れたが、一晩中待っても、雲が晴れることは無かった。仕方なく、その年は何も持たずに江戸へ帰って来た。


「そりゃ、お天道さまのことだもの。そういう日だってあるわ。むしろ、今までずっとお天気だったことの方が不思議なくらいよ。大丈夫。まだ二年の猶予があるんだから……」


 帰って来た庄九郎が畳に額を擦りつけて詫びるのを、月乃は慌てて止めながら、そう慰めた。

 ところが、次の年も、その次の年も同じだった。

 十五夜の空は分厚い雲に覆われ、月は顔を出すことは無かった。

 変若水を飲まなくなって、遂に三年―――間もなくやって来る新しい年とともに、月乃はとうとう十七歳を迎える。


「終わりがないものなんてないのよ」


 絶望する庄九郎よりも、むしろ月乃の方が冷静だった。

 土下座したまま、石になったように顔を上げない庄九郎の背を撫でながら、そんな風に諭すほどの余裕があった。


「今までずっと、守ってくれてありがとう。あなたがくれた五十年のお陰で、私、何もかも受け入れる覚悟ができたわ。あなたはもう自由になって。どこへでも、好きな所へ行ってちょうだい」


 庄九郎は一時、月乃の前に顔を出せないほどに消沈し、自分を責めていたが、やがて、それまで通りの仕事を再開し、黙々と働くようになった。最後までおのれの役目を全うしようと、心に決めたようだった。


 庄九郎はこの家とともに、心中するつもりかもしれない……

 一向に去ろうとしない庄九郎を見ている内に、月乃はいつしかそう考えるようになった。

 そうはさせない。たくさんの人を不幸にした人生だったけれど、せめて庄九郎だけでも助けてやらねばならない……そう思い、契約の時が来る前に毒をあおり、自ら命を断とうと思った。


 その矢先、銀作が現れた。

 あまりにも出来過ぎた展開に、何か大いなるものの意志を感じざるをえない。



「……この家に、何が見えるか教えていただけませんか」


 月乃が言うと、銀作は厳しい顔でこちらを見返した。


「見だままを言うてもいいんか」


 静かだが覚悟を問うような重い口調に、ごくりと唾を呑み込む。しかし、すぐに心を決めてうなずいた。もう既に、散々さいなまれてきたのだ。せめて、自らを苦しめるものの正体くらいは知っておきたい。

 銀作はうなずき、改めて月乃の背後を見て、目をすがめた。


「まんず、あんたの後ろに気配が二つ……いや、三つだな」


 ずばり言われて、鳥肌が立つ。しかし、銀作は続けて意外なことを言った。


「二つは、優しい霊だ。男と女。寄り添って、ほとんど一つになりかげでる。白い光さなっで、あんたを護ろうとしてる。疲れて、おぼろげだども、とてもしったげあんたを心配しでら。男は、白髪交じりで四角い顔。女はまだ若ぐで、ほっそりして、目がでがぇ……あんたによぐ似た人だ」 


 目頭が熱くなった。おととさま、おかかさま……と心の中で呟く。母は、月乃が九つの時に病で亡くなり、父もまた心労がたたって、五十歳になる前に亡くなった。二人とも、ずっと月乃の傍で見守ってくれていたのだ。そうとしか思えなかった。

 しかし、同時に心がずんと重くなった。「ひどく疲れておぼろげ」だという銀作の言葉が気にかかった。月乃のことが気がかりで、二人は死して後も安らげないままでいるのだ。


 銀作は淡々と続ける。


「もう一つは、黒い影。……男だな。まだ新しい。強い執着と敵意。あんたに近づくなと、さっぎがらおらを睨みづげでら」


 黒い男の影。それが、長年月乃を狙っている”叢雲”の正体だろうか。

 月乃が尋ねると、銀作は首を横に振った。


「一番の大物は、あんたでなく、この家さ憑いでる。こんがらがった、でがぇ影だ。いぐづも気配が絡み合っでら。昼日中じゃあんまり力が出せねんだな。霧のようさなっで、家中に漂っでる」

「……どういう姿をしているのか、わかりますか」


 銀作は じっと家の中を見回した。立ちあがり、他の部屋や、庭の様子を見たいと言うので、月乃も後について回った。

 仏間に入った所で、銀作の目がすっと細くなった。月乃に断ってから、仏壇に手を合わせ、三つ並んだ位牌の内の一つを手に取る。妖と契約を交わしたとされる、月乃の祖父のものだった。


「……この家と店の、歴史がわがるものはあるが」


 月乃は少し考えて、亡き父が使っていた部屋へ銀作を案内した。父・千衛門は大変に筆まめな男で、店の帳簿はもちろん、従業員の入れ替わりの記録や日々の日記など、こまごまと書きつけては全て保管していた。帳簿の表紙には、それがいつ書かれたものなのかもきちんと書きつけられている。


「最近のものは、番頭が所持していると思いますが、あいにく今外出していて……」

「いや、ありがて。昔のもんのほうがい」


 銀作はその場に腰を下ろし、まずは一冊手に取って開くと―――そこから読書に没頭した。黒い瞳を素早く頁の上に走らせ、捲り、ある程度確認したら次の冊子を手に取る。この世から音が消え失せてしまったかのように集中している。

 月乃は何度か茶を淹れに厨へと立ったが、盆を手に部屋へ戻るたび、出た時と同じ姿勢で書を読む銀作の姿を見ることになった。一刻ほどもその状態が続いた。


 日が翳り出した頃、銀作はふと顔を上げた。


「誰か来る」

「えっ」


 つられて月乃も耳を澄ませる。特に気になるような物音はない。

しかし、しばらく耳を澄ませていると、裏口の戸が開く音と、微かな足音が聞こえてきた。店の上り口に見知らぬわらじがあることに気づいたのだろう。訝しげに月乃を呼ぶ男の声が聞こえる。月乃はハッとして立ち上がった。


「おかえりなさい、庄九郎さん」


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