第九話

 その時だった。


 りん―――と涼やかな鈴の音を耳にして、月乃はハッとして動きを止めた。

 それは、店に備えつけていた、客のおとないを告げる鈴の音だった。店が手薄の時、客が自ら紐を引いて音を鳴らし、店の者を呼ぶのである。

 一瞬、空耳かと疑った。もう何年も客の訪れなどない。

 りん、りん、と催促するように、続けて鈴の音が鳴った。やはり聞こえる。間違いない。


「お待ちください」


 月乃は慌てて丸薬をしまうと、一旦厨に行って慎重に手を洗い、店へと向かった。

 普段閉まっているはずの表戸は開け放たれていた。手前の土間に、表戸のつっかえ棒が落ちている。先ほどの家鳴りのせいで、つっかえ棒が外れたのだろうか……叢雲もよほど慌てていたのか、粗忽なことである。

 

 入口に、一人の男が立ち、店の中を見回していた。通りから差し込む逆光を受けて、顔がよく見えない。しかし、随分奇妙な格好をしているようだ。この寒空に似合わぬ麻の単衣ひとえと山袴。手拭いの上から菅笠をかぶり、白い犬の毛皮を着ている。腰には物々しい皮の胴乱と山刀を下げ、背中には大風呂敷に包んだ何か細長いものを背負っている。 


「大変、お待たせいたしました。何かご入用でしょうか」


 月乃は上り口に正座し、三つ指をついて丁寧に礼をした。直接客の応対をするのは初めてで、どきどきする。

 男がこちらを見た。

 月乃はハッと息を呑んだ。切れ長の、相手を射貫くような鋭いまなこ―――その瞳の中に、不知火しらぬいのような青白い光が揺れているように見えたのだ。しかし、何度か瞬きをして、幻覚だったと思いなおした。明るい日の光の中、笠の影からこちらを見つめる瞳は、常の人と変わらぬ黒い色をしていた。


「……薬、買いでゃんだども」


 東北訛りの低い声で、ぼそりと男が言う。異様にどっしりとした貫禄があるが、顔も声も、遠目に想像したよりずっと若い。


「どのような物をお求めですか?」


 男が右腕を持ち上げて見せる。「きゃっ!」と月乃は思わず悲鳴を上げた。乱雑に巻かれた手拭いに、じわじわと血がにじみ出している。逆光でよく見えなかったとはいえ、男が少しでも痛がる素振りを見せていれば、もっと早く気づいていただろう。これだけの深手を負いながら、どうして眉ひとつ動かさずにいられるのか。


「大変!すぐに手当てをしないと……こちらへどうぞ」

 

 薬箱を取りに店の奥へ行きかけた時、不意に、ぞろ……とうなじの辺りに生暖かい風が流れた。

 息を呑み、足を止める。まただ、と唇を噛んだ。この所、体の周りに怪しい風がまとわりつくことがたびたびある。日一日、”叢雲”の気配が強まっていくのを感じる。


 ―――何よ。別になんでもないわよ。


 月乃は息を詰めて、ぞわぞわした感覚に耐える。ほんの一時のことだ。しばらくすれば気配は霧散するのだから……と自分に言い聞かせる。


 しかし次の瞬間、ふ……と涼しい風が通り抜けたかのように、気配が霧散した。

 驚いて振り返る。先ほどの男が、すぐ後ろに立っていた。虫でも追うのように、月乃の頭の辺りで、しっしと手を振っている。月乃があっけに取られているのに気づくと、すぐに手を引っ込めた。


「……蚊がいだ」


 何食わぬ顔で、しれっと嘘をつく。この年の瀬の寒風の中に、蚊が生き残っているわけがない。


「……あなた、何か見えているんですか?」


 いつか、妖を討ち払う者が現れる……父が死に際に残した言葉だった。

 いざ、その可能性を持った者と対峙した今、月乃の胸に浮かんだのは「どうして」という言葉だった。

 せっかく、全てを諦める覚悟を決めたところだったのに、どうして今になって、救いの手を差し伸べてくるのだろう。この世にまこと「神」なる者がいるのなら、それはひどく意地悪で、小さき者どもを掌の上で転がして、慌てふためく様を楽しんでいるのではないか……そんな気さえした。

 くしゃりと顔が歪むのを止められなかった。

 泣き出しそうな顔をして俯いた月乃に、男はぎょっとした顔をして、あたふたと両手を彷徨さまよわせた。

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