第八話

 一八六四年、師走。

 月乃や庄九郎が妖と対峙したあの日から、既に五十年の時が流れていた。

 かつては賑わっていたおぼろ堂の店頭はひっそりと静まり返り、奉公人のいない屋敷はがらんとして、一層寒々しく感じる。


「……月乃お嬢さん」


 障子戸の向こうからかけられたさびのある声に、月乃は薬研を使う手を止め、顔を上げた。廊下に正座する庄九郎の影が障子に映っている。傍らには大きな薬箱が置かれていた。


「行商に出て参ります。暮れ六つまでには戻りますので」

「ご苦労様」


 見送ろうと立ち上がりかけた月乃を、庄九郎は「寒うございますから」と手で制す。火鉢のあるあたたかい部屋から、主人を出すまいという心遣いである。月乃は素直に腰を下ろし、「気をつけてね」とだけ声をかけた。一礼し、静かに離れて行く庄九郎の影を、月乃は気遣わしげな目で見送った。


 今や、おぼろ堂に残っている人間は、月乃と庄九郎のふたりだけ。多くの奉公人は去り、わずかに残った心ある者達も、歳には勝てずに亡くなった。実父である先代当主も、心労がたたってか早くに病を得て、五十歳になる前にこの世を去った。今では、月乃がおぼろ堂の女主人であり、庄九郎は番頭ということになっている。

 主人の、番頭のといっても、どちらも名ばかりのものだ。化物屋敷のようになってしまった店に、薬を求めて買いに来る客などいない。それでも「守り神」との契約がある以上、店を離れるわけにはいかず、商家のていをとるなら御上に税も納めなければならない。財産も切り崩すばかりでは、いつかは尽きてしまう。

 そのため月乃が作る薬を、庄九郎が売り歩いて、わずかばかりの生計を立てることになった。店の噂が届かない郊外まで売りに行かねばならないので、庄九郎は日に何里もの道のりを往復している。そのことを月乃はずっと、心苦しく思っているのだが、皮肉なことに月乃の作る薬はよく効くと評判らしく、医療の手の届きにくい田舎の百姓たちに重宝されているらしかった。

 

 ため息をつき、頬に落ちた髪を耳にかき上げて、作業を再開する。毎日の手間を省くため、髷は結わず、簡単にまとめるだけの髪型にしている。たくさんあった簪や振袖は売り払い、生活の足しにした。かつての月乃の姿を知っている庄九郎は、地味な木綿の小袖だけを着た月乃を見るたびに、痛ましいような、申し訳ないような顔で見てくることがある。しかし、月乃自身はきらびやかな衣装や飾りに執着はなかった。外出の予定も来客のあてもないのだから、飾り立てる意味もない。むしろ重い振袖より、動きやすい小袖の方を好ましく思っているくらいだった。


「こんなものかしらね……」


 出来上がった薬を小分けにして、紙に包んでゆく。ここ数日、庄九郎には内緒で薬を多めに作り溜めていた。―――これだけあれば、作り手がいなくなっても、しばらく生活に困らないだろう、と。


 片づけを終えて一息つきながら、ぐるりと部屋を見渡す。

 月乃の部屋には、店から運び込んだ薬棚と、大量の書物がある。大半は亡き父の所蔵していたものだが、庄九郎に頼んで新たに手に入れてもらったものも混じっている。膨大な量ではあるが、外に出ることも叶わず、時間ばかりはたくさんあるので、手あたり次第読むうちに、あらかたの内容は覚えてしまった。それも、もう使うあてのない知識だと思えば、虚しさだけが募っていく。


 ふと目に留まった小箪笥に、懐かしい記憶が蘇った。抽斗ひきだしを開け、中から小さな薬壺を取りだす。初めて庄九郎と言葉を交わした時に使った、膏薬の入った薬壺だった。



――――


 一度だけ、月乃は庄九郎に、胸の内を伝えたことがある。


「一度だけ……ほんの一度だけでいいの。抱きしめてくれませんか……?」


 お仕着せの袖をそっとつまみ、拒絶される恐怖に怯えながら、勇気を振り絞ってそう言ったのだった。

 その頃の庄九郎は二十歳と少し。壮気健全にして才気にあふれた、たくましい若者になっていた。

 かつては同い年の少年と少女だった。それがいつの間にかこんなにも隔たっていた。自分を置いて、一人だけ大人になっていく庄九郎に、置いて行かれるような寂しさを覚えて、はしたなくもそんなお願いをしたのである。


 庄九郎は苦しみを滲ませた顔で月乃を見つめ、やがて首を横に振った。


「できません」

「なぜ……?」

「叢雲との約定をたがえれば、お嬢さんの身に何が起こるかわかりません。だから、それだけは……」

「私……このまま何もしないで、ずっとお家の中にいなきゃいけないの?お人形みたいに、ただ息をするだけで生きていかなきゃいけないの……?」


 そっと庄九郎の袖を引き、その胸に額を寄せた。縞のお仕着せに染みついた生薬の匂いを嗅いだ時、切なさと恋しさに涙がこぼれた。

 自分を守るために多くの人が一生懸命になってくれたことは分かっている。思いに応えようと言うなら、精一杯生きるべきなのだとわかっている。

 けれど、もう耐えられないと思った。月乃のせいで、既に何人もが苦しめられている。叢雲を調伏しようとして死んだ陰陽師がいると聞いた。親友の命さえ危険にさらした。今、目の前にいる庄九郎にだって、無理を強い続けている。

 あらゆるものを犠牲にしながら、自分だけが子供のまま、安穏と生き続ける毎日……まるでいつ覚めるともしれない悪夢の中で、永遠に苛まれているようだ。このままこの家の中で死んだように生きていくだけなら、いっそ全てを終わらせたい。

 その前に、一度でいい。彼をつかまえたい……自分の中に、かように身勝手ではげしい心があったことを、月乃は生まれて初めて知った。


「もういいの。もう、やめたい。あなたが受け入れてくれるなら、私、もう……どうなったって……っ」


 庄九郎が月乃の肩を掴んだ。

 顔を上げると、視線がぶつかった。間近に迫った瞳の中に、確かな欲望の火が揺らめき、その中で自分がかれているのを、月乃は見た気がした。

 想いは同じだった―――しかし、彼はそれを、ただ一度の瞬きで消し去ってしまった。

 庄九郎はそっと月乃の体を押し返した。悲しくも優しい笑顔でこう諭した。


「お嬢さん、諦めちゃいけません。あなたは大切な方だ。いつかきっとこの家を出て、光の中を歩けるようになります。その時まで、生きていかなくちゃいけない。旦那様も、いつかのお友達も、みんな、みんな、それを望んでいたんだから……」




―――


 ……今にして思えば、なんて浅はかなことを言ったのだろうと、自分が恥ずかしい。約定を違えれば月乃だけでなく、庄九郎の命さえ危うくなったかもしれないのに。

 

 あの日を最後に、庄九郎は指一本すら月乃に触れてはいない。

 部屋に立ち入ることもせず、障子の向こうから声をかけて来るだけだ。

 それでも変わらず、献身的に仕え続けてくれている。外に出ることができない月乃に代わって、薬を売り、必要なものを買いそろえ、日に三度の膳を整え、風呂を焚いてくれる。月乃を見る目に、かける声に、所作の全てに、変わらない真心が感じられる。


 しかし、五十年という歳月は、確実に庄九郎の肉体を蝕んでいた。

 いつしか庄九郎が、季節の変わり目に空咳を繰り返すようになったことに、月乃は気づいていた。時折苦し気に胸を押さえていることにも、隠れて丸薬を呑み下していることにも、立ち上がる時に、そっと膝を庇うような間を作るようになったことにも気づいていた。


 庄九郎はきっと無理をしている。

 あまりにも無理を強い過ぎてきてしまった。

 解放しなければ。この家から……月乃自身から。


 月乃は軟膏の入った小壺をそっと抽斗に戻すと、その下の、最下段にある抽斗を開いた。そこにしまってあるのは、先日、月乃が自ら作った丸薬と、それに使われた生薬の残りであった。

 附子ぶす―――トリカブトの塊茎である。

 正しく処理をすれば、気を巡らせ冷えを取り除く薬になるものだが、そのままでは猛毒である。少量でも摂取すれば体がしびれ、四半刻も経たない内に呼吸ができなくなり、死に至るという。

 

 月乃は丸薬を手のひらに乗せて、しばしの間、じっと見入った。

 これを口にすることは、長年、守り続けてくれた庄九郎に対し……そして、父母やお千夏に対しても、これ以上ない裏切りになることは間違いなかった。しかし、放っておいても月乃はじきに叢雲のものになる。ならば、せめて庄九郎だけでも、明るい世界に戻してやりたい。命があり、体が動く内に自由にしてやりたい。


 ただならぬ気配を感じたのか、屋敷の中の妖の気配がざわめき始めた。カタカタと屋敷全体が震え出し、柱がきしみ、唸り始めた。


「壊すなら、壊しなさい」


 丸薬を口元に運びながら、月乃は冷たく言い捨てた。


「あなたと私で心中するだけよ。私にはもう、未練なんて何も無いんだから……」

 

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