第七話
二年半後の、
庄九郎は主人の居室に座していた。
隣には月乃が座り、その向こうには更に、緊張した面持ちの千衛門が座している。
庄九郎は、隣に座る少女に、そっと目をやった。
月乃は、また少しやせたようだ。つぶし島田を結い、あらわになっている首筋が、ほっそりとして青白い。伏し目がちでいるせいか、長い睫毛が頬に影を落としていて、ふとした瞬間に消えてしまうのではないかと思うほど儚げに見える。
視線の熱を感じたのか、月乃がふと庄九郎の方を見た。目が合うと、少し驚いたように、大きな目を瞬かせる。庄九郎は慌てて視線を前に戻した。
この二年で、庄九郎は随分と背が伸びた。手足が大きくなり、肩幅も広く、厚くなった。元服して前髪を落とし、小僧から
一方、月乃の方は、恐らく
これまでに庄九郎は三度隠岐の島へ赴き、三度変若水を持ち帰っていた。変若水は千衛門の手を介して月乃へ渡された。”叢雲”に悟られぬよう、若返りの水であるとは月乃自身にも伝えていない。ただ、「気持ちを落ち着ける薬水だよ」と伝えられただけである。
月乃は素直に水を飲んだ。その水が細い喉を通り、薬効が全身に行き渡った後も、はっきりと目に見えるような変化が起こったわけではない。ただ、聡い月乃は、それがただの水ではなかったことに気づいているだろう。同い年の庄九郎を前にして、三年の月日がもたらした変化の違いが尋常でないことを目の当たりにし、その気づきは確信に変わったはずである。
無関係なはずの庄九郎がこの場に同席すると聞いた時にも、月乃は何も言わなかった。ただ、何かを察したように瞳を潤ませ、
大丈夫……連れて行かせはしません。
心の中だけで月乃にそう語りかけ、庄九郎は大きく深呼吸をした。
やがて、夜の九つ―――約束の時が訪れた。
どろりとした黒雲のごときものが床下から生じ、天井を圧すように膨れ上がった。
雲はしばしの間、生き物のように蠢いていたが、やがて中空に凝り、中心にぷかりと一対の目を生じさせた。
『約束じゃ、千衛門どの。娘をもらってゆこうか』
愉悦を滲ませたその声を聞いた途端、月乃が震え出した。聞き覚えのあるその声が、おぞましい記憶を蘇らせたらしい。胸に引き寄せた右手の甲に、左手で爪を立てている。一層色を失くした顔に、冷たい汗がふつふつと浮いているのが見える。
千衛門は娘の肩に手を添え、口を開いたが、言葉は出なかった。極度の緊張に達した彼は、一時的に言葉を失くしたらしい。
庄九郎は腹を括った。
背筋を伸ばし、”叢雲”に正対して口を開いた。
「恐れながら申し上げます。守り神どのは勘違いをしておいでのようです」
『なに……?』
途端に叢雲は剣呑な声を上げた。あたりの空気が冷たく張り詰める。
『勘違いじゃと?さようなはずがあるか。今宵はまさしく約束の日。早う娘をよこせ』
「人の時は短く、神々の時は悠久にございます。ひと時の重さが違いますゆえ、思い違いをなされたのでしょう。月乃お嬢さんは数えで十四。お嫁に行くには、今少し早うございます。今宵の所は、どうぞお引き取り下さいませ」
低い声で凄まれても、庄九郎は顔色一つ変えない。店頭で面倒な客に難癖をつけられた時と全く同じように、涼しい顔で対処している。
叢雲は得心がいかぬというように、もぞもぞとその場にとどまった。よほどこの時を待ち焦がれていたのだろう。獣のような低い唸り声を上げた。その身はぼこぼこと泡立ち、いくつもの
『小僧!この
小さな嵐に呑み込まれたかのようだった。
耳元で暴風が轟々と唸る。
生臭い息が吐きかけられ、黄色く光る二つの目が、至近距離からギロリと庄九郎を睨む。稲妻が走り、火花を散らした。屋敷全体が音をたてて揺らぎ、壊れるかと思うほどに震えた。
庄九郎は一歩も退かなかった。まっすぐに妖の目を睨み返し、叩きつけるように声を張り上げる。
「謀ってなどいない!真実、この家の守り神だと言うなら、あなたにもわかるはず。月乃お嬢さんは、まだまだ十七にはなりませぬ。早々に、お帰り下さいませ!」
不意に、叢雲はしんと鎮まった。
ゆっくりと庄九郎から離れ、再びもとの位置に戻って漂っている。ぼこぼこと、いくつもの
おもむろに、瘤の一つがぼこりと蠢いた。触手のようにするすると身を伸ばし、庄九郎の周囲をめぐり、じろじろと顔を覗き込むような仕草をした。
『……うふっ、いい男だねぇ』
ぞうっ……と全身が総毛だった。それが発した甘やかな声音は、妙齢の女のそれにしか聞こえなかったからである。
しかし、その姿をよく確認する前に、瘤はするすると元の場所へ戻っていった。
叢雲はなおもこだわるようにその場で蠢いていたが、やがて、
『……ちっ』
舌打ちのような音を響かせて、ふっと姿を消した。
去ったのか―――
庄九郎が肩から力を抜いた時、不意に、ひくっ……と押し殺したような嗚咽が漏れた。
隣で月乃が泣いていた。両手で口元を覆い、肩を震わせながら、ぼろぼろと涙をこぼしている。
「……お嬢さん」
いたわしくて、思わず声をかけた。
震える肩に手をのばしかけ、触れてはならないことに気づいて、ぐっと握りこむ。
月乃の手が動いた。白くて細い指―――いつか、庄九郎の瞼に薬を塗ってくれたその指が、きゅっと庄九郎のお仕着せの袖をつかんだ。熱い涙が、庄九郎の手の甲に落ちる。
愛おしさがあふれた。
胸に落ちた甘い熱が、じわりと沁みて痛かった。
庄九郎はその手を握り返すことができないまま、ただじっと、ほたほたと涙を落とす少女を見つめ続けた。
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