第六話

 庄九郎が隠岐の島へ出立してまだ間もない頃、月乃は自室の文机に突っ伏して、ぼんやりと時を過ごしていた。

 西日の差し込む黄昏時である。本来であれば、夕飯の支度に女中たちが大わらわの頃であるが、この所は妙にしんとした日々が続いている。

 家中の者が減っている証拠だ。父が招いたという陰陽師の死体が池に浮いた日から、この家を離れる奉公人が後を絶たない。

 父やお鶴は必死で隠そうとしたようだが、月乃はこっそりとその池を見てしまっていた。肉体は既に取り去られた後だったが、一面真っ赤に染まった池の水の中で、死んだ鯉たちがプカプカと浮いていた。血の池地獄もかくやといった、その光景と強烈な腐臭に、月乃は思わず顔を覆って部屋へとって返し、しばらくの間は震えが止まらなかった。現実にそこで人ひとりが死んだのだと思うと、全てが夢であったらよかったのにと願わずにはいられなかった。


 夢―――


 部屋を満たす真っ赤な日の光に、あの日の朝を思い出して目をつむる。

 あの日見た夢は鮮明に覚えている。光の無い、冷たい水底のような場所に、一人たゆたっているような夢だった。

 笑いをこらえるような誰かの声を聞いた。


『つきの』

『つきのか』

『かわいや』

『かわいやの』

『まだ入れぬか』

『まだ入れぬよ』

『あと三年みとせか』

『三年の辛抱じゃ』

『待ち遠しいの』

『じゃが、ほんの少しなら……』

『そろりとなぞろう』

『なぞるだけな』

『かわいやの』

『かわいやの』

『はよう、おいで』

『おいで、おいで……』


 高い声。低い声。

 シャボンの向こうから響かせるような、くぐもった声とともに、生暖かい何かが、ぬるりと肌を撫でた。

 ぬるり、ぬるり。

 ぬるり、ぬるり……

 得体の知れぬものに一晩中肌を撫でられ続ける恐怖に耐え、ようやく朝を迎えた時、そこには一面鮮血の散った部屋と、同じく血まみれの自分自身とがいて、思わず悲鳴を上げたのだった。


 あの大量の血は、確かに月乃のものではなかった。

 しかし、湯あみと着替えを終え、別室でようやく人心地ついた後のことである。いつにない倦怠感と刺すような腹痛を覚えて厠に立った時、初めて月乃は、自分の体がそれまでと変わっていたことに気づいた。手の甲に書きつけられた「おめでとう」の文字―――その意味を悟った時、あまりのおぞましさに吐き気を覚え、震えながらその場にうずくまった。

 しばらくは誰にも、何も言えなかった。

 溜まっていく浅草紙と、汚れた湯文字の始末に困り、とうとうお鶴に助けを求めた時には、涙がこぼれて止まらなかった。


 あの日以来、月乃は屋敷の外に出ていない。

 誰かに会うのも、自分の姿を見られるのも恐ろしく、一日のほとんどを部屋にこもり、息をひそめて日々を過ごしていた。



「……お月ちゃん、お月ちゃん」


 障子の向こうから、誰かが自分を呼んでいる。

 半ば微睡みかけていた月乃は、あまりにも聞きなれたその声に、ハッと目を覚まして身を起こした。


「お……お千夏ちゃん?」


 障子に映ったお千夏の影が、ちょっと小首をかしげるようにして無邪気に笑う。 


「三味線のお稽古、早引きして来ちゃった。ね、入ってもいい?」


 月乃は迷ったが、そっと障子戸を開けた。ほんの少しでもいい。お千夏と他愛ない話をして、以前のように笑い合いたかった。

 月乃を一目見るなり、お千夏はハッとして、眉を寄せた。


「どうしたの!?ひどい顔じゃない!」

「……ご挨拶ね」


 微笑もうとしたのに、頬がこわばって上手くいかない。「笑い事じゃないわよ」と、お千夏は月乃の肩に手を触れた。


「こんなに青い顔して、痩せちゃって……ねえ、一体何があったの?ひょっとして何かの病気なの?お月ちゃん、これまで一度だってお稽古ごと休んだことなかったのに、この所ずうっと来ないもんだから、あたしも、おっ師匠しょさん達も、とてもとても心配していたのよ?」

「ちがうの。お千夏ちゃん、私……わたしね……」


 言うべきではないとはわかっていたのに、こらえきれなかった。

 月乃はここ最近の怪異について、お千夏に話した。あまりにも聞くに堪えないようないくつかの点については伏せたが、事の深刻さと不気味さは上手く伝えられたようである。

 お千夏は真剣な顔で月乃の話に聞き入り、聞くごとに険しい顔になっていった。

 やがて最後まで聞き終えると、お千夏は やにわに月乃の手を取って、すっくと立ち上がった。


「逃げよう、お月ちゃん」

「えっ……」


 お千夏に引っ張られて膝立ちになりながら、月乃はおろおろと戸惑った。


「ここを出て、私のお家へ行くの。ね?行きましょう」

「でも……」

「だって、あたし、いやだもの!お月ちゃんと、この先ずっと会えなくなるなんて、絶対にいや!」


 お千夏の両目に、見る見るうちに涙の粒が盛り上がり、ぼろぼろとこぼれて頬をつたい落ちた。


「守り神だかなんだか知らないけど、仮にもお嫁にと望む相手に、こんな仕打ちをする奴なんて、きっと碌なもんじゃないわ。気持ち悪いったらないわよ!お月ちゃんは、あたしが知ってる全人間中で、いっとう強くて、やさしい、良い子なのに!」

「お千夏ちゃん……」


 声を詰まらせた月乃を、お千夏は強く抱きしめた。振袖に焚きしめられた香の匂いと、お千夏自身の甘い肌の匂いに包まれる。


「覚えてる……?うんと小っちゃい頃、あたしの頭にぽとんて青虫が落ちてきたの……取って、取ってって、泣いて頼んだのに、みんな気味悪がって離れて行っちゃって……お月ちゃんだけが、そっと青虫をつまんで、近くの植え込みに放してくれたの。びっくりしたわね。でもこの子、きれいな蝶々になるんだよ。怖くないよって言ってくれたの……」

「うん……」

「なのに、何よ。一体どうして、お月ちゃんがこんな目に遭わなきゃいけないの?あたしの友だちをこんな風にいじめるなんて、絶対許さないんだから!」


 張り詰めていた糸が切れたようだった。

 月乃は顔をくしゃくしゃにして頷くと、こぼれる涙を手のひらで拭いながら立ち上がった。



 部屋を出た瞬間から異変が起こった。

 障子戸を開け、廊下に一歩踏み出した途端、ずん……と屋敷全体が大きく揺らいだのである。

 地震ではない。その証拠に、庭木はそよとも揺れていない。

 二人は一瞬間凍りついたが、お千夏は勇気を奮って月乃の手を引いた。


「急ごう。もう日が落ちかけてる」


 二人は下駄をつっかけ、庭の端にある木戸を目指して小走りになった。

 夕日が正面から差して、眩しさに何も見えないほどだ。当然、二人の少女の影は、体の後ろに向かって伸びている。

 ところが、どうしたことか……地に落ちた屋敷の影は、なぜか二人に向かってずんずんと伸びて来るのである。二人はぎょっとして足を速めた。

 お千夏の息がだんだんと乱れていく。

 走っているためではない。恐怖のためである。 

 月乃は必死で足を動かした。

 あともう少し……あと少しで木戸に手が届く。

 しかし、お千夏の手が木戸にかかるほんの一瞬前に、日は没し、二人は屋敷の影の中に呑み込まれた。


 不意にお千夏がぴたりと足を止めた。

 声一つ上げない。左手に月乃の手を握ったまま、凍りついたように動かない。


「お……お千夏ちゃん?」


 おそるおそる声をかける。

 顔を覗き込んでみて、月乃は思わず息を呑んだ。

 お千夏の顔は蒼白で、顔中に冷たい汗をびっしりとかいていた。 

 目を見開き、あえぐように舌を出しているが、声のひとつも出ない。

 ひくり、ひくりと、肩を震わせている。


「お、お千夏ちゃん、どうしたの?しっかりして……!」 


 お千夏の肩を掴んで揺さぶりかけた月乃の手の甲を、見えない何かがずるりと這いずったような気がした。

 冷たい手に、心の臓をきゅっと握られたかのようだった。

 忘れもしない。いつかの夢で苛まれた、あの不気味な感触だ。


「だめっ!」


 月乃が叫んだ途端、お千夏が白目を剥いてひっくり返った。

 背中からどっと地面に倒れ、背を反らし、自らの喉をかきむしりながら、声にならない絶叫を上げる。

 お千夏の喉には、何もついてはいない。

 それなのに、何かにぐうっと首を絞められているかのように、肌がうっ血している。


「やめて!もうやめて!」


 口から泡を噴きながらうち回るお千夏を抱えながら、月乃は立ち込める闇に向かって必死で叫んだ。


「お願いですから、もうやめてください!私はずっとこの家にいます!お嫁に行くその時まで、一歩も外には出ませんから!だから、お願い!もう、この子を苦しめないでっ!誰も傷つけないで……っ!」


 ぴたり……とお千夏の動きが止まった。

 息は止まっている。

 月乃は一瞬、最悪の事態を想像して凍りついた。


 しかし、杞憂であった。

 ややあって、ひゅっ……と音を立ててお千夏の喉に息が通り、激しい咳き込みとともに、正しい呼吸を取り戻した。涙に濡れたまつ毛が瞬きを繰り返し、やがてふっと開いた目には、光が戻っていた。


「あれ……私、一体どうしちゃったの……?」


 激しい苦しみの後でぼうっとしているお千夏を抱きしめ、月乃は幼子のように、声を放って泣いた。親友を危険に巻き込んだ自責の念と、大事に至らなかった安堵と、もう二度と彼女には会えなくなるのだという絶望が胸を圧し、とめどなく涙を溢れさせた。 

 夜風が吹きつけて木々を揺らし、化物の笑い声のようにざわざわと枝葉を騒がせた。

 辺りはとっぷりと、冷たい夜に暮れていた。


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